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日時: 2024年5月25日(土)
会場: 大田区民ホール・アプリコ 大ホール(蒲田)
曲目:
  • A.ボロディン: 交響詩「中央アジアの草原にて」
  • A.ボロディン: 歌劇「イーゴリ公」よりダッタン人の踊り
  • D.ショスタコーヴィチ: 交響曲第5番「革命」
  • (アンコール) エルガー: エニグマ第9変奏 「ニムロッド」
指揮: 和田 一樹

 和田一樹のショスタコーヴィッチははじめて聴く。
 これまであまり振っていないのではないか?
 どう見ても“陽キャ”の和田と、“陰キャ”の極みとしか思えないショスタコーヴィチは相性が良くないように思われるが、どうなのだろう?
 そんな好奇心を胸に蒲田に馳せ参じた。

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太田区民ホール・アプリコ

 ボロディン『ダッタン人の踊り』については前に書いたことがあるが、やはり、アルタードステイツすなわち意識の変容を引き起こすスピリチュアルな音楽と思う。
 一曲目の『中央アジアの草原にて』も同様で、知らないうちに瞑想状態、いや催眠状態に引き込まれた。
 ボロディンについてはほとんど知らないが、ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィッチの証言』(1979)によれば、博愛主義者でフェミニストだったという。
 そのあたりのスピリチュアル性が音楽に反映されているのかもしれない。

 ボロディンはまた優れた化学者でもあり(むしろ作曲は副業)、ボロディン反応(別名ハンスディーカー反応)という化学用語を残している。
 意識の変容を起こすこの特徴も「ボロディン反応」と名付けたいところだ。

ボロディン反応
ボロディン反応

 ショスタコーヴィチの第5番『革命』をライブで聴くのは2回目、前回は東京大学音楽部管弦楽団(三石精一指揮)によるものだった。
 その時感じたのは、『革命』という標題はまったく合ってないなあということと、最終楽章で表現される「暗から明へ」の転換はどうにも嘘くさいなあということであった。
 むしろ、第1楽章から第3楽章で表現される「不安・緊張・恐怖・悲愴・慟哭」が限界に達し精神が崩壊したために生じた“狂気”――という印象を持った。
 その後、ショスタコーヴィチの伝記を読んだり、他の交響曲を聴いたり、彼が生きた時代とくにスターリン独裁時代のソ連の内実などを知って、自らが受けた印象があながち間違っていなかったと思った。
 最終楽章は、体裁上は「暗から明」の流れをとって「ソビエト共産党の最終的勝利」、「スターリンの偉大さ」を讃えているように見える。
 が、それは二重言語であり、裏に巧妙に隠されたメッセージは、「ファシズムの狂気」、「独裁者の凱歌」、「強制された歓喜」なのである。
 マーラーに匹敵する天才と官能性を兼ね備えていたショスタコーヴィチが、自らのもって生まれた個性を自由自在に表現することを禁じられた、その“抑圧の証言”こそが、彼の音楽の個性とも特徴ともなってしまったのは、悲劇である。
 が、一方それはまた、「巨大権力による抑圧と迫害」という、ロシアやガザ地区やミャンマーをはじめ現在も世界各地で起こっていて、インターネットで世界中の人々に配信・共有されている“悪夢の現実”を、内側(被害者の視点)から表現しているわけである。
 もしかしたら、しばらく前から音楽的な時代の主役は、「マーラーからショスタコーヴィチに」移っているのかもしれない。


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ガザ地区
 hosny salahによるPixabayからの画像

 和田一樹の第5番を聴いて“革命”的と思ったのは、最終楽章である。
 大太鼓の皮が破れるのではないかと思うほどの爆音の連打にソルティは、「狂気」でもなく、「悪の凱歌」でもなく、「強制された歓喜」でもなく、ショスタコーヴィチの「怒り」を聴きとった。
 それは指揮者の怒りと共鳴しているのやもしれない。
 そうなのだ。
 人民は抑圧する権力者に対して、いろいろな態度を取りうる。
 諦めたり、悲しんだり、絶望したり、流されるままになったり、従順になったり、抑圧に手を貸す側に回ったり、内に引きこもったり、他国に逃避したり・・・・。
 ショスタコーヴィチが置かれた境遇のように、たとえ表立って抗議するのが困難な場合でも、少なくとも怒りは持ち続けることができる。
 怒りは忘れてはならない。
 怒りこそ「革命」の源なのだから。

 横浜国立大学の学生たちの若いエネルギーを怒りのパワーに転換させたのが、今回の第5番だったように思った。