1967年講談社
1988年講談社文芸文庫
大江健三郎の代表作である本作を読んでなかった。
大学生の頃この作家にかぶれ、芥川賞を受賞した『飼育』はじめ『死者の奢り』、『芽むしり仔撃ち』、『われらの時代』、『性的人間』、『個人的な体験』と初期作品をほぼ発表された順に読んできて、「次は『万延元年のフットボール』だ」と思っていたところ、なぜか『洪水はわが魂に及び』を先に読んでしまい、そこで打ち止めとなった。(小説以外では『沖縄ノート』を一昨年読んでいる)
『洪水は~』がつまらなかったわけではない。
脳に障害を持って生まれた息子と父親との言葉を超えた交感、および二人を包む不器用な若者集団の「連合赤軍あさま山荘」的破滅を描いた『洪水は~』は、寓意性や物語性に富んで、とても面白く感動的だった。
タイトルが聖書の一節からとられていることからわかるように、スピリチュアルな色合いも濃かった。これを読んだ80年代初頭、“スピリチュアル”という概念はまだ日本になかったが・・・。
面白かった一方、これまで読んできた大江作品とはカラーが違っていた。
初期作品はどれも青年期の鬱屈が感じられた。
性的抑圧と連動するようなカタチで、周囲の世界に対する苛立ちや畏れが基調を成していた。
大江自身、初期作品群は「監禁」が主要テーマだったと後に述懐しているし、そこにGHQ支配下におかれた敗戦国日本の屈辱を見る論者もいる。
20代のソルティは、戦後の政治状況や日本人の屈辱というテーマにはぴんと来なかったが、青年期の鬱屈は自分ごととしてビンビン共感できた。
そこに大江作品にかぶれた理由があった。
根暗な青年、今で言うなら「陰キャ」だったのである。
『洪水は~』を読んだとき(正確にはその前に読んだ『個人的な体験』あたりから)、大江が内に抱いて作品として結実させるテーマが、自分の関心とはかけ離れたものになっていることを察し、「もう大江は十分だ」と思ったのであった。
当然のことながら、若くデビューした作家も成長する。疾風怒濤の青春期を後にし、社会化する。齟齬や摩擦のあった周囲の世界と、とりあえずの和解をもつ。
そのうえ大江の場合、脳に障害ある息子(作曲家・大江光)の父親になる――父親になることを引き受ける――という大きな転機があった。
言ってみれば、アフリカの原住民部族のバンジージャンプのような通過儀礼である。
つまるところソルティは、“大人になった”大江健三郎に置いてけぼりにされたような気がしたのであった。
これは初期作品から順に読んできたからこそ、つまり小説家の成長過程を追ってきたからこそ起こり得た現象だろう。はじめの一冊に『洪水は~』以降の作品を手にとっていたら、逆に初期作品を読むことはなかったかもしれない。
およそ35年ぶりに大江の作品を手にとったのは、かつての“推し”にして我が国で川端康成に継ぐノーベル賞作家の代表作を読んでいないという長年の気がかりを解消したかったのと、2018年の秋に四国遍路をした折、大江健三郎の生まれ故郷であり、本作の舞台である大窪村のモデルとなった愛媛県喜多郡内子町大瀬を訪れたからである。
小説を通じて、もう一度大瀬に会いたかった。
内子駅で下車して東方に道をたどると、駅前の集落はたちまち尽きてしまい、そこから渓谷を蛇行している小田川に沿って昔ながらの街道が山間部にずっと延びている。その狭隘な街道を約5キロほども遡行すると、やっと小さな村落にたどりつく。そこが大瀬の集落である。村落の北東方面に目をやると遠く近く石鎚山脈の巨大な峰々が起立していて、いかにもここで行き止まりといった印象を受ける。(本書巻末「作家案内」より抜粋)
むろん、本作で描き出される大窪村(大瀬)は、ソルティが訪れるより半世紀以上も前の1960年代初頭の姿であり、交通事情やら家並みやら人口構成やら村人のたつきやら、まったく現在とは違っている。
また、あくまでもフィクションの中に設定された集落であり村人であり、大窪村=大瀬と単純に受け取るのは早合点が過ぎる。
が、大江健三郎の出身地という以外に特別な観光名所もない、遍路道沿いにあるとは言え巡礼札所からは離れている――67キロ離れた43番と44番の間にある――ので歩き遍路でなければ立ち寄ることもない、アクセスの悪い山間の僻地ゆえ、半世紀前と変わっていないところも多かろう。
地形であるとか、左右に広がる深い森と谷間を流れる小田川の透き通った水の色であるとか、空気感であるとか、土地柄であるとか、古くから住みついている人々の“村民性”であるとか、60年代当時から残っている建物であるとか、リンを鳴らし通り過ぎる遍路の姿であるとか・・・・。
2018年に訪れた際の大瀬の光景を脳裏に浮かび上がらせながら本書を読むという、まことに贅沢な、臨場感ある読書体験をした。
江戸や明治の町屋や蔵屋敷が並ぶレトロな内子町
大正14年から昭和40年まで営業していた映画館(旭館)
少年時代の大江健三郎も通ったことだろう
内子から大瀬に向かう遍路道
大瀬
小田川
小田川を渡ったところにある遍路休憩所
大瀬の目抜き通り
大江健三郎の実家
大江の母校の大瀬小学校
シンメトリカルで瀟洒な造りに驚いた
大瀬の館(大瀬自治センター)
元村役場だった
見学や休憩ができる
掲示されていた昔の村地図に「朝鮮部落」とあった
『万延元年』に朝鮮人が登場するのは故あることだった
宿泊することもできる
大江健三郎の写真が飾られていた
もちろん書籍も
大江の母校の大瀬小学校
シンメトリカルで瀟洒な造りに驚いた
大瀬の館(大瀬自治センター)
元村役場だった
見学や休憩ができる
掲示されていた昔の村地図に「朝鮮部落」とあった
『万延元年』に朝鮮人が登場するのは故あることだった
宿泊することもできる
大江健三郎の写真が飾られていた
もちろん書籍も
翻訳の仕事をしている蜜三郎と妻の菜採子は、はじめての子供が脳に障害を持って生まれ自分たちの手では育てられそうもないことにショックを受けた。蜜三郎はまた親友の奇矯な自殺を目撃し、引きこもり状態になっている。そこへ60年安保の闘士であり、挫折を胸にアメリカ放浪してきた蜜三郎の弟鷹四が帰ってくる。鷹四は兄夫婦に、「新しい人生を始めるために、一緒に生まれ故郷の大窪村に行こう」と誘いかける。鷹四を信奉するヒッピー風の若い男女一組も引き連れ、一行は四国の谷間を目指して出発する。だが、実は鷹四には兄には告げていない過去の秘密と、闘士としての密かな目論見を持っていた。やがて、万延元年に大窪村で起きた一揆をなぞるように、静かな山間に鬨の声がとどろく。
――という物語が、大江の特徴である翻訳調のごつごつした文章で綴られていく。
難解で固い文章には違いないのに不思議と土俗性を醸し出していく才は、この作家ならでは。
食べるのを止められない病いにかかった大女のジンや、かつて徴兵逃れのため森に入って戦後もそのまま森に棲み続ける隠者ギーなど、印象に残るキャラクターづくりもさすが。
思った以上に面白かった。
文庫の裏表紙の短い解説文では、物語の簡潔なあらすじと共にこう紹介されている。
幕末から現代につなぐ民衆の心をみごとに形象化し、戦後世代の切実な体験と希求を結実させた画期的長編。谷崎賞受賞。
おそらく、一般的にはこの通りの解釈で間違いないのだろう。
けれど、「戦後世代の切実な体験と希求」を共有していない、60年安保も70年安保も知らない、一揆はもちろんゲバ棒にヘルメットのような暴力をともなう政治運動を経験したことがない、“戦後”という言葉すら時代遅れとなった昭和元禄&バブル世代に育ったソルティは、この兄弟をめぐる物語を、上記解説のように読むのは難しかった。
まったく別の読み方、違った解釈で読むことになった。
ソルティは本作を、鷹四という主人公の一種のトラウマドラマとして、すなわち鷹四という人物の一連の行動を精神分析的に解釈する誘惑にかられながら読まずにはいられなかった。
鷹四には兄の蜜三郎に隠していた、家族の誰にも話すことのできずにいた少年時代のあやまちがあった。
そのあやまちは残酷な結末を迎え鷹四は致命的な傷を負うのだが、誰にも話せないことであるがゆえに、そのトラウマは鷹四をその後ずっと束縛し、苦しめ続けることになる。
鷹四が安保闘争に飛び込んで恐れ知らずの闘士として同志から英雄視されるようになるのも、アメリカ旅行中に単身スラムに入って無防備な探索をするのも、自らを罰したいという破滅願望ゆえなのである。
そしてその破滅願望は、生まれ故郷の大窪村で、村人たちを扇動し“伝説の一揆”を起こすという無鉄砲をもって表出される。ほかならぬたった一人の肉親である兄の目の前で、自らのトラウマをさらなる暴力によって昇華させ、良くも悪くもケリをつけたいという、やむにやまれぬ衝動のあらわれとして――。
鷹四は、兄蜜三郎にすべてを目撃してもらい、すべてを知ってもらい、過去のあやまちを償う自らの“証人”になってもらいたかったのだ。
そのように解釈してみると、鷹四というキャラクターは初期作品に共通して見られた「鬱屈」の形象化であり、一方、鷹四の暴発と悲劇的最期を傍らで目撃しつつ、その根源にあるものをつきとめ、荒ぶる魂を鎮静し、日常生活に復帰していく蜜三郎は「社会化」の比喩である。
本作は初期作品から後期作品への「乗越え点」と、「あとがき」で大江健三郎自身が述べている。
まさに“通過儀礼”的な作品なのである。
一つだけ釈然としない点をあげる。
ラストで鷹四の子供を妊娠した菜採子が蜜三郎のもとに戻ってくるが、これは夫である男性の視点からはともかく、妻である女性の心情からして不自然な気がする。
ここまで決定的なことがあって、夫婦関係をこれまでどおり継続できるものだろうか?
離婚するかどうかは別として、少なくとも、二人には冷却期間が必要だろう。
妻の菜採子の実家は裕福らしいので、いったん里に帰らせるというやり方もできたはず。
「なんかとってつけたような、無理くり大団円にしたラストだなあ」という感がした。
女性読者の多くはどう思うのだろう?
一つだけ釈然としない点をあげる。
ラストで鷹四の子供を妊娠した菜採子が蜜三郎のもとに戻ってくるが、これは夫である男性の視点からはともかく、妻である女性の心情からして不自然な気がする。
ここまで決定的なことがあって、夫婦関係をこれまでどおり継続できるものだろうか?
離婚するかどうかは別として、少なくとも、二人には冷却期間が必要だろう。
妻の菜採子の実家は裕福らしいので、いったん里に帰らせるというやり方もできたはず。
「なんかとってつけたような、無理くり大団円にしたラストだなあ」という感がした。
女性読者の多くはどう思うのだろう?
それにつけても、やっぱり、大江健三郎は凄い。
またいつの日か大瀬の里に行きたいな。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損