1964年日活
150分、白黒

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 ガラス壁面に蔽われたビルディングの反射光ですら、焼けるように熱い午後の池袋。
 東池袋駅から歩いてたどりついた新文芸坐の適度な空調と柔らかいシートに包まれ、ほっと一息ついたが、「上映時間150分」という場内アナウンスを耳にして不安にかられた。
 120分でも長く感じる昨今のソルティ。
 最後まで起きていられるかしら?
 ボリウッド映画『RRR』(179分)や岡本喜八版『日本のいちばん長い日』(157分)のような全編みなぎる緊迫感と面白さがなければ、寝落ちのリスクは高い。
 適当なところで一時停止して休憩がとれる自宅での映画鑑賞に軍配が上がる理由の一つである。

 始まってすぐ、白黒画面の画質の荒さと暗さに不安は高じた。
 デジタルリマスターしてないのか。
 見づらい・・・・。
 北林谷栄扮するお婆ちゃんが登場して東北弁でもごもご喋る。
 セリフが分かりづらい・・・・。
 これは寝落ち確定だなと思いながら観ていると、『太陽にほえろ!』のヤマさんでお茶の間の人気者となった露口茂が登場した。
 わ、わかい。
 カッコいい。
 ヤマさん、こんなイケメンだったのか!
 こんなセクシーだったのか!

 鬱屈した表情をした32歳の露口茂が、東北の田舎の村に住む平凡な顔した小太りの女をつけ狙う。
 春川ますみである。
 ソルティの中では、『江戸を斬る』、『暴れん坊将軍』の長屋のカミさんイメージが圧倒的に強い脇役専門女優だ。
 と、刑事のヤマさんが長屋のカミさんを、露口茂が春川ますみを、強姦する。

 !!!

 一気に覚醒した。
 そこからは、画質の荒さもセリフの聞き取りづらさも超えて、ドラマに入り込んだ。

 露口が演じるのは、心臓病持ちの孤独な男、平岡。
 東京でパンパンをしていた母親を亡くし、いまは仙台のストリップ小屋でバックミュージックを演奏している。
 春川が演じるのは、宮城県北の東北本線沿線に暮らす主婦、貞子。
 ただし、主婦とは言っても正式に入籍されておらず、夫吏一(西村晃)との間にできた息子勝は、戸籍上は吏一の父親の子となっている。
 貞子の母は吏一の祖父の妾腹にできた子であった。
 母親亡きあと行く当てのなかった貞子は、吏一の実家で女中として働き、そこで吏一の子を身籠ったのである。
 吏一と貞子は、祖父を同じくする事実婚の夫婦ということになる。
 出自の賤しい貞子は、吏一の一族から下に見られ、ぞんざいに扱われている。
 そのうえ、吏一には貞子とできる前から付き合っている同じ職場の愛人義子(楠侑子)がいた。
 
 家父長制と男尊女卑と村社会。
 いかにも昭和の地方ならではの因循姑息たる風土。
 その中で二重三重に縛られた一人の鈍くさい女が、強姦をきっかけに強く、したたかになっていく過程が描き出される。
 と同時に、女の性を描こうとしているところに、60年代という制作時における本作の話題性はある。
 
 70年代日活ロマンポルノ以前に、女の性をテーマに可能なかぎりの写実表現に挑戦した今村の創作意欲は称賛に値する。
 乳首さらけ出しのオールヌードやそのものずばりの交接シーンこそない(たとえば、強姦シーンは轟音で通過する汽車の映像によって暗喩されている)ものの、性に興味を抱き、男に抱かれることの快楽に囚われていく女性の姿が、リアリティ豊かに描かれている。

 貞子を演じる春川ますみは一世一代の熱演で、これ一作で映画史にその名が刻まれよう。
 十人並みの器量で、愚鈍だが気のいい娘であるこの貞子という役は、若尾文子でもなく、高峰秀子でもなく、岡田茉莉子でもなく、大竹しのぶでもなく、田中裕子でもなく、やっぱり春川ますみだからこそハマる。
 1975年にTVドラマ化(ソルティ未見)で貞子を演じた市原悦子もなるほど適役とは思うけれど、エロの濃度では春川に及ばないだろう。
 春川ますみは、女優になる前、浅草ロック座や日劇ミュージックホールでダンサーとして活躍していたのである。

赤い殺意2
露口茂と春川ますみ

 80~90年代フェミニズムを通過した令和の現在、ここで描かれる「家」制度や男尊女卑が噴飯たるものである、ましてやいかなる形であれ相手の意志を無視したセックスが許されないのは言うまでもないが、60年代の日本の(とりわけ地方の村の)現実の描写としては、決して間違ったものではない。
 大島渚監督『儀式』にも見るように、このような日本があった。
 では、女の性の描き方についてはどうだろう?
 実はそこがソルティの引っかかったところである。

 平岡に強姦された貞子は、身を恥じて自殺を試みるが失敗する。
 一方、貞子を好きになってしまった平岡は、しつこく貞子に付きまとい、会ってくれなければ夫にばらすと脅し、ふたたび貞子を強姦する。
 貞子が身籠ると、それが自分の種と思い込んで、夫を捨てて一緒に東京で暮らそうと迫る。
 強姦魔で、悪質ストーカで、恐喝犯で、完全な自己中人間。
 しかるに、その平岡に抱かれるうちに貞子は“感じて”しまい、次第に平岡に惹かれるようになっていく。
 ここである。

 それが強姦であっても、やられているうちに女は“感じて”しまい、体を重ねるうちに男の匂いを忘れ難くなり、いつの間にか男を愛するようになる。
 この「嫌よ嫌よも好きのうち」、「今に好くなるよ」、「なんだかんだ言って濡れているじゃないか」ストーリーは、ほんとうに女の性の一部であろうか?
 ソルティは女性を強姦したことがないし、女性が強姦されている場面もTVドラマや映画などのフィクションでしか見たことないので断言できないのだが、やっぱりこれは「男にとって都合のいい妄想」であろう。
 たとえ、強姦された女性が強姦した男に従順になったとしても、それは快楽や憐みや愛からではなく、恐怖や絶望によって精神が麻痺したため、あるいは生き延びる方策のため、いわゆるストックホルム症候群である。

 こうした「雨降って地固まる、強姦転じて愛」のような勘違いはどうも男に共有されがちらしく、今村より前に巨匠黒澤明が『羅生門』において、野武士(三船敏郎)に強姦された貴族の妻(京マチ子)の表情の変化において、この種の妄想を表現している。(芥川龍之介の原作『藪の中』はどうだったか覚えていない)
 その後、日活ロマンポルノ(とくにSM作品)やアダルトビデオやアダルトコミックで、男の「強姦転じて愛」妄想は爆発的に映像化され漫画化され商品化され、スタンダードな女の性のあり方の一つとして、世の男たちの脳に刷り込まれてしまったようである。
 だが、それを女の性の“真実”とするのは間違っているし、スタンダードなアダルトビデオのジャンルとして一般化するのは適切ではあるまい。
 そのファンタジーを“真実”と信じた若い男たちが勘違いして、手が後ろに回るリスクも生む。生んでいる。(セックスの最後は顔射で終わるものと勘違いする若者がいるように)

 なぜ、男は「強姦愛」妄想を抱くのだろう? 好むのだろう?
 それを考察すると話が長くなるので、やめておく。
 観点を一つだけ上げるなら、男のセックスが征服欲(サディズム)と結びつきやすいところにある。
 相手を力で征服し、下に組み伏し、馴致させるところに勝利の快楽を覚える気質が、多かれ少なかれ、男という種には存する。
 いわゆるマッチョイズムだ。 

お姫様だっこ

 最近、インティマシー・コーディネーター( Intimacy Coordinator )という耳慣れない言葉をネットで見かける。

インティマシー・コーディネーターは、映画・テレビや舞台など視覚芸術の製作にかかわる職種のひとつ。一般に、俳優らの身体的接触やヌードなどを演出上必要とする際に、演出側と演者側の意向を調整して、演者の尊厳を守りつつ効果的な演出につなげる職種と理解されている。(ウィキペディア『インティマシー・コーディネーター』より抜粋) 

 ドラマ制作現場におけるセクハラやパワハラが欧米で大きな問題となった2017年頃に誕生した職種らしいが、今後日本のテレビや映画や舞台の現場でも欠かせないものとなっていくのは間違いあるまい。
 名匠・巨匠と言われる監督や舞台演出家でさえ、このルールの適用を免れることはできないだろう。

 セクハラやパワハラの概念がなく、一個人が社会に向かって内部告発し“# Mee too”によって味方が得られるSNSもなく、撮影現場における監督の力が絶大だった60年代、しかも役者使いの荒いことで知られる今村昌平監督のロケにあって、主演の春川ますみがどれだけのセクハラやパワハラを被ったことか。
 それを、「売れるためには仕方ない、いい作品を作るためには止むをえまい、この業界で生きていくことを選んだからには文句言うまい」と、自らに幾たび言い聞かせたことか。

 そんなことを想像しながら観ていたら、眠くなる間もなかった。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損