1957年松竹
134分

 きだみのるの小説『気違い部落』シリーズを原作とする。
 きだみのる(1895-1975)は鹿児島県出身の小説家。フランス留学の経験を生かし、『ファーブル昆虫記』の翻訳もしている。
 戦中戦後、東京都南多摩郡恩方村(おんがたむら、現:東京都八王子市)の廃寺に20年ほど籠もるように暮らした。
 そのときの見聞をもとに書いたのが『気違い部落周游紀行』(1948年)で、一躍ベストセラーになった。
 「気違い」扱いされた恩方村の人々にしてみれば、たまったもんじゃない。
 きだに向って鎌を振りかざし、村からの立ち退きを迫ったという。

 恩方村は童謡『夕焼け小焼け』誕生の地でもある。
 作詞の中村雨紅がこの里のお宮の子供であった。
 ソルティは山登りの帰りに寄ったことがあるが、緑豊かな長閑な里といった印象を受けた。
 なお、この小説および映画のタイトル中の「部落」は被差別部落のことではない。
 本来の語義である「集落」の意である。

恩方村の夕暮れ
八王子市恩方

 国立映画アーカイブの2階ホール(310席)はほぼ満席であった。
 95%は中高年男性だった。
 古い邦画を愛する映画マニアにとって、見逃せない作品なのである。
 というのも、一見タブーの2乗のような物騒なタイトルをもつ上、実際に作品中でも放送禁止用語が頻発する本作は、TV放映NGはもちろんのこと、DVDにもなっておらず、旧作専門の映画館でも上映される機会が滅多にないからである。
 のっけから、ナレーターを務める森繁久彌が「きちがい」を連発するわ、犬を撲殺して皮を剥ぎ肉鍋にするシーンは出てくるわ、肺病患者や共産党員(アカ)を差別するセリフは飛び出すわ、セクハラ・パワハラは空気のように当たり前で、“令和コンプライアンス”に違反することだらけである。
 加えて、部落の男どもときたら、博打は打つわ、酒を飲んでくだを巻くわ、殴り合いの喧嘩をするわ、妻がいるのに女工に手をつけるわ、酒に水増しするあこぎな商売はするわ、密猟するわ・・・、片や女どもは寄ると触ると人の悪口を言うわ、猥談するわ、ノーパンでワンピースを着るわ・・・。
 前近代的で閉鎖的な村社会に生きる色と欲と偏見にまみれた男女の姿が、赤裸々に描き出される。
 前半は戯画的かつコミカルなタッチで。
 後半は悲劇的かつシニカルなタッチで。

 昭和30~40年代に首都圏のベッドタウンに生まれ育ったソルティは、こうした地方の“村社会”文化に直接触れたことはない。
 が、TVドラマや映画や小説や漫画を通じて、あるいは地方で生まれ育った知人から話を聞いて、「田舎の暮らしとはそういうものか」と思っていたので、いまさらその実態に驚くことはない。
 むしろ、新鮮な驚きは、昭和の頃の自分なら何とも思わなかったであろう「きちがい」というセリフの連発や犬殺しのシーンにショックを覚え、「これはちょっとマズいんじゃないの?」とドギマギしている、令和の自分を発見したことであった。
 つまり、昭和から平成を通過して令和に至る数十年で、表現の自由に対する自らのしきい値、つまりNGラインがいかに変わったかに気づかされた。
 その変化は、良く言えば、人権意識の向上、ソフィストケイト、紳士化、民度の向上、SDGs理解の深まりってことであるが、反面から見れば、社会に洗脳されて“いい子”になった、表現の自由の範囲を狭めようとする世の潮流に知らず押し流されていた、ということでもある。
 だいたい、戦争映画やホラー映画で人が虐殺されるシーンは平気で観ているのに、一匹の犬が殴り殺されるシーンに、「見ていられない!」「残酷だ!」「許されない!」と思ってしまうあたりが、世間の恣意的なNGラインの設定と、ソルティの洗脳されっぷりを示しているではないか。
 実際、犬撲殺シーンでは、観客席から非難とも悲鳴ともつかない声が上がっていた。

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国立映画アーカイブ

 さすが「国立」を冠する施設だけある。
 フィルムの保管方法が良いのだろう。画質と音声は信じられないくらいクリアであった。(あまり上映されないせい?)
 出演者がみんな上手く、味がある。
 部落一の権力者・良介を演じる山形勲は、高峰三枝子共演『点と線』を観た時も思ったが、岸田首相に似ている。メガネをかけたらクリソツなのではないか。権威を笠にきる俗物っぽい男を好演。
 その取り巻きを演じる藤原鎌足、三井弘次、信欣三らのコミカルな演技は秀逸。
 良介の妻役の三好栄子は、木下惠介『カルメン、純情す』や小津安二郎『おはよう』での怪演ぶりが記憶に残るが、ここでもエグイほどのキャラ立ちで観客を楽しませてくれる。男優なら天本英世にならぶ希有な怪物役者だ。三好栄子特集をどこかで組んでくれないものか。(新文芸坐 or 神保町シアター or ラピュタ阿佐ヶ谷?)
 今井正監督『橋のない川』で名優ぶりを知った伊藤雄之助。ここでも地か芝居か区別つかないような渾身の演技を見せる。演じることに対する凄まじい情熱は、後輩の三國連太郎と比肩しうる。
 若い恋人役を演じる、まぎれもない美男美女の石濱朗と水野久美は、有象無象が跋扈する部落にあって唯一の清涼剤。石濱朗は、美空ひばりとコンビを組んだ『伊豆の踊子』で、水もしたたる美青年ぶりを見せていた。やっぱり、目鼻立ちが菅田将暉を思わせる。
 ほか、うれしいサプライズは、伴淳三郎、淡島千景、清川虹子、桂小金治、もちろんナレーターの森繁久彌。

 『気違い部落』というだけあって登場人物がみなそもそも個性的なのであるが、そればかりでなく、昔の役者の個性豊かさはどうだろう?
 高齢者介護施設で働いていた時に思ったのだが、大正生まれの人は個性的で面白い人が多かった。
 結構わがままで職員泣かせなのだが、どこか剽軽で憎めない。
 風変りなエピソードを持っている人も多かった。
 育った時代の空気というものだろうか。
 そのうち入所者が昭和生まればかりになってくると、日本人から個性とユーモア精神が抜けたような気がした。
 戦後生まれともなると、さらに画一化。
 役者についても当然それはあてはまる。
 本作は、大正生まれの役者たちの“味”の証言とも言える。

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階段に掲示された昔の映画ポスター
 
 前述したように、きだみのるは恩方村の人々から恨まれた。
 が、言うまでもなく、きだが言いたかったのは、恩方村は日本の縮図であり、「気違い部落」とはそのまま日本の姿だということである。
 本作の最後のナレーションでも、「このような部落は日本中どこでもあります」と言っている。
 おそらく、フランス留学で西欧文化に触れたきだは、日本の前近代性をしこたま痛感し、なかば絶望したのだろう。
 たとえば、権力への盲従、談合、根回し、同調圧力、掟、村八分、「なあなあ」主義、本音と建て前の使い分け、組織の無責任体質、男尊女卑の家制度、重要なことは会議でなく料亭や居酒屋で決まる、よそ者を嫌う閉鎖性・・・・e.t.c.
 恋人を結核で亡くし「気違い部落」に愛想をつかした石濱朗が故郷を捨てるラストシーンに象徴されるように、はたして令和日本人は、「気違い部落」の住人であることを止めたのだろうか。
 
 こういった本質的テーマを無視して、「気違い」や「犬殺し」で目くじらを立て(あるいは自己規制して)フィルムをお蔵入りさせてしまう風潮は、まったく好ましくない。
 テレビ放映は無理でも、「観る or 観ない」を一個人が選択できるDVD化はされて然るべきと思う。
 



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損