2019年原著刊行
2020年青土社(訳・高橋洋)

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 非常にスリリング、かつ啓発的、かつ面白い、かつ難しい本であった。
 難しさの理由は二つ。

 一つは、本書が最先端の科学イシューを扱っているからで、進化生物学を基盤としつつ、神経科学、脳生理学、遺伝学、宇宙物理学、相対性理論、量子力学、色彩工学、情報理論など様々な科学分野を自在に横断し、いきおい科学用語や科学理論が科学者の名前とともに頻繁に出てくるからである。
 しかも、著者が自らの理論を説明するのにもっぱら利用するのが、インターフェースとかアイコンとかデスクトップとかファイルといったコンピュータ用語。
 科学オンチ、ITオンチの文系人間であるソルティには敷居が高い。
 
 今一つの理由――多くの読者にとってはこっちのほうが乗り越えがたい敷居かもしれない――は、本書で著者が主張しているテーマが、我々が普通に抱いている直観(世界把握)に反するからである。
 それはちょうど、天動説をあたりまえと思っている16~17世紀の人々が、「いや、動いているのは地球だ。地球は自転しながら公転している」という地動説を聞かされた時に感じたのと同様レベルの「バカらしさ、わけのわからなさ、受け入れ難さ」を読者にもたらす。
 つまり、本書は読者の認識に「コペルニクス的転換」を迫るのだ。

 本書を手に取って、「おや?」とすぐに気づくが、プロフィールが掲載されていない。
 著者ドナルド・ホフマンのプロフィールだけでなく、訳者の高橋洋のそれも載っていない。
 たいていの本のカバーや奥付には著者プロフがあり、とりわけ名の知れた学者先生の書いた本なら、錚々たる輝かしき履歴が、高い学識&教養をうかがわせる顔写真とともに掲載されるのが常である。
 日頃それに慣れている本好きにしてみれば、「どこかにあるはず」と本をひっくり返しプロフを探してしまうのも無理なかろう。(探してみた)

 訳者のプロフがないのは原著者のそれがないからに違いない。原著者がプロフを載せていないのに、訳者だけが載せるわけにはいくまい。
 おそらく、ドナルド・ホフマンは確信犯的にプロフを載せることを拒絶したのだろう。
 そこにまさに、「プロフィールを先に読むことによる先入観や固定観念を持って本書に臨んでほしくない」、「あらゆるバイアスから自由になって、書いてあることを虚心坦懐に精査してほしい」という著者(と出版社?)の思いを汲み取ったのだが、うがち過ぎ?

 本書でドナルドが読者に迫る「コペルニクス的転換」とは何か。
 それを上手く言い表しているのが、邦題『世界はありのままに見ることができない』である。
 原題のTHE CASE AGAINST REALITY は「対リアリティ裁判」といった意で、アメリカの科学者が一般大衆向けの本を書くときにやりたがる、ちょっと気の利いたジョークを狙ったネーミング――代表的な例がSelfish Gene「わがままジーン=利己的遺伝子」――だと思うが、これを上記のように邦訳したのはグッジョブ!

 あなたがスプーンを見ているあいだ、それは存在している。だが目を離すやいなや、スプーンは存在しなくなる。何かが存在し続けるのは確かだが、それはスプーンではないし、時間と空間の内部に存在するのでもない。スプーンとは、あなたがその何かとやり取りする際に構築するデータ構造、すなわち適応度利得と、その獲得方法をめぐってあなた自身が作り出した記述なのだ。
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qwer6695571によるPixabayからの画像

 いったい何を言っているのやら、首をひねる人も多いと思う。 
 これはソルティ流に解釈すると、認識と存在の関係を語っている。
 我々人類を含む地球上に存在する生命(種)は、各々に備わっている知覚(=認識システム)を通して外界を見ている。つまり、それぞれの生命が見ている(受け取っている)世界の姿は異なっている。
 いかなる生命(種)も、「ありのままの世界(存在)」を認識してはいない。

 なぜ、そういうことが起こるかと言えば、生命の至上目的は「生き残って子供をつくること」にあるからで、それぞれの生命は与えられた環境の中でその目的を果たすために“最適化”されている。生き残って子供をつくるために役立つ遺伝情報が、ほかのすべてに優先されて、子孫に受け継がれていく。
 当然、知覚(=認識システム)も然り。
 「ありのままの世界」(本書では「実在」と訳されている)を認識することは二の次、三の次であって、優先されるべきは、環境にうまく適応し自然淘汰(種としての絶滅)を免れるために役立つ知覚(=認識システム)を備えることである。
 同じ趣旨のことが、『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(ロバート・ライト著)に書かれている。

 ダーウィン由来の進化生物学から導き出されたこの理論を、著者はFBT(Fitness Beats Truth)定理と呼んでいる。

FBT定理:少なくとも(N-3)/(N-1)の確率で、適応度戦略は真実戦略を絶滅に追いやる。

 FBT定理は「空間、時間、形、色調、彩度、明るさ、肌理、味、音、におい、運動などの知覚の語彙は、実在をありのままに記述することができない」という結論を導く。

 それぞれの生命(種)がやっているのは、与えられた知覚(=認識システム)によって、ありのままの世界(実在)という素材から、種ごとの固有の“世界”を作り出すことである。
 ソルティ流にいえば、我々は存在しているものを認識しているのではなく、認識したものを存在させている。

 ここでの知覚の働きを、ドナルドはパソコンのデスクトップ画面のようなインターフェースにたとえ、知覚のインターフェース理論(ITP)と呼んでいる。

 インターフェースは自然選択によって形作られ、生物種ごとに、さらには同じ生物種でも個体ごとに異なりうる。

 ITPの主張によれば、進化は私たちの感覚を、人間の必要性に調整されたユーザーインターフェースになるよう形作ってきた。インターフェースは実在を隠し、私たちが生きる生態的地位のもとで適応的行動を導く。時空は私たちのデスクトップ画面であり、スプーンや星のような物体はホモ・サピエンスが持つインターフェースのアイコンなのである。空間、時間、物体に対する私たちの知覚は、真正たるべく、すなわち実在を開示したり再構築したりするために自然選択によって形作られたのではない。子供を生み育てるのに十分な期間生き残れるよう形作られてきたのだ。

 FBT理論によれば、人間の感覚が自然選択によって形作られたのなら、私たちは実在をありのままに見ていない。ITPによれば、私たちの知覚は人類固有のインターフェースをなす。また知覚は実在を隠し、子どもを生み育てることを支援する。時空はこのインターフェースのデスクトップ画面であり、物体はそのなかのアイコンである。
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DeactivatedによるPixabayからの画像

 驚くべきことに、我々が外界に見ている物体のみならず、時間や空間さえも!「実在=ありのままの世界」ではないと述べている。
 ここまで来ると最早、映画『マトリックス』に出てくる、ポッドの中で脳に電極をつながれ、コンピュータによって作られた仮想現実を“本物と信じて”生きている人々とさして変わりない。
 我々が体験している“世界”はバーチャルリアリティであり、夢とよく似た脳内現象だと言っているに等しい。

 「それはちょっと言い過ぎだろう」とさすがに思ったが、ドナルドは本気である。
 どころか、量子論やホログラフィック原理、あるいはホーキング博士のトップダウン宇宙論など最先端の理論物理学の成果によれば、「時空は存在しない」という命題は絵空事ではなくなりつつあるのだと言う。
 現代科学はそこまで来ていたのか!

 著者がFBT定理(適応>真実)の証拠の一つとして採用しているのが、錯覚である。
 何もないところに線を見たり図形を見たり色を見たり、一つの図形が見方によって向きを変えたり、同じ一つの色が周囲に置かれた色との関係によって異なった二つの色に見えたり、あるいは、同じ人物が履いている同じ型のジーンズが、尻ポケットのデザインや縫い目の曲線一つで一段とセクシーに見えたり・・・さまざまな錯覚の例が紹介されている。
 錯覚は、我々の知覚が“事実”をいかに歪めてしまうかを示す恰好の例なのである。
 カラーページもあって、この章はとても面白い。

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(本書中のカラーページより)

 人類を含む生命の形質や機能のすべてを、種の存続のための自然淘汰の結果とする、すなわち進化生物学に還元させるドナルドの言説には、ソルティはやや強引なものを感じる。
 子供をつくることだけが、人類の唯一の存在理由であり目的なのか!――という問いが反射的に浮かんでくるのは、ソルティがゲイで子供を持たないからだけではあるまい。
 「それを言っちゃあ、おしまいよ」という寅さんのセリフがどこからか聞こえてくる。
 つまり、それだけが目的なら、人類は動物となんら変わりなく、つまらない存在である。
 人類が作り上げてきた文化や文明に対する侮辱のようにすら感じられる。
 そもそも、「子供をつくるため」だけなら、人類にこれほどの知能は必要なかったろう。

 人類が、「生きるとはなんぞや?」といった哲学や本書のように“不都合な真実”を暴いてしまう科学を持つこと自体が、ドナルドの示す「生の目的」の反証のように思われる。
 というのも、難しいことを考えたり、生きる意味をあれこれ悩んだりしない人間のほうが、ばんばん子供を作るだろうから。(十代のヤンキーのように←偏見?)
 「なぜ?」という問いをもつ生命が作り出されたことは、人類の使命というか大自然の目的に単なる種の存続以上のものがあることを含意しているのではなかろうか。

 それとも、「なぜ?」という問いを持ったがゆえに、人類は地上の生物間の生存競争に敗れ絶滅する運命にあるのだろうか?(少なくとも、西洋近代哲学&科学にかぶれることなく、アッラーの命じるがままに子供をつくるムスリムのほうが、生き残る可能性が高いのは確かである)

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Muzammil Ibn MusthafaによるPixabayからの画像

 さて、最後に残された問題は、ずばり、「実在とはなにか?」である。
 知覚(=認識システム)を超えたところにある“何か”
 見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも、触れることも、心に描くことも、それについて考えることも、言葉にすることも、まったくできない“何か”
 “何か”とはなにか?
 ここに至って、話はスピリチュアリズムに、とりわけ仏教に近接する。 
 すなわち、
  •  諸行無常=世界は変化し続ける
  •  諸法無我=世界は実体を持たない
  •  因果法則=世界は因縁でできている(カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』を参照のこと)
  •  不立文字=悟りは文字や言葉で表せない
  •  解脱=輪廻転生(認識する生命体として生まれ変わること)から自由になる
  •  涅槃寂静=解脱したあとの境地
 思うに、仏教の悟りとは、正しい修行の果てに認識システムが一瞬壊れ、ひょいと「実在」を垣間見てしまうことなんじゃないかなあ。

 著者は、実在を説明するのに、コンシャスリアリズム(意識的実在主義)という用語を用いている。

 コンシャスリアリズムは、「時空や物体ではなく意識こそが根本的な実在であり、それは意識的主体のネットワークとして定義される」

 コンシャスリアリズムは、いかなる物体も意識を持たないと主張する。私が岩を見ると、岩は私の意識的経験の一部となる。しかし岩それ自体に意識はない。私が友人のクリスを見ると、私は自分が作り出したアイコンを見るが、アイコンそれ自体は意識を持たない。私が持つクリスのアイコンは、意識的主体の豊かな世界に臨む小さなポータルを開く。

 すべては意識であるというは、なんだか唯識論にとっても近い。
 というか唯識論そのもの?
 意識的主体=阿頼耶識? 
 仮に、この意識的主体を「神」と言ってしまえば、「神は万物の創造主」、「すべては神の御手のうちにあり」、「神は我々一人一人の中にあらします」、「神は一にして一切である」と表現することもできそうだ。
 最先端の科学ロケットの向かう先に、結局、人類は「神」を発見するのだろうか?
 それが「生の目的」ってことがありうるだろうか?




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損