撮影するソルティが映り込んで面白い絵柄となった
日時: 2024年8月12日(月)14時~
会場: サンパール荒川(大ホール)
指揮: 小﨑雅弘
演出: 澤田康子
キャスト
ナブッコ : 野村 光洋(バリトン)
アビガイッレ: 柳澤 利佳(ソプラノ)
ザッカーリア: 鹿野 由之(バス)
イズマエーレ: 秋谷 直之(テノール)
フェネーナ : 河野 めぐみ(ソプラノ)
アンナ : 東 幸慧
アブダッロ : 黒田 大介
ベルの司祭長: 上野 裕之
荒川オペラ合唱団
荒川区民交響楽団
『ナブッコ』は、好きなオペラの一つである。
初めて舞台で聴いたのは、1988年9月のミラノスカラ座来日公演。会場はNHKホールだった。
当時、スカラ座の音楽監督になって間もないリッカルド・ムーティの『ナブッコ』が評判をとっていた。
とくに、第3幕の奴隷たちの合唱『行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って』がことのほか素晴らしく、気難しい観客の多いスカラ座で大喝采を博しアンコールされたとメディアを通じて伝わって来た。(ネットのない時代である)
そのムーティが日本でも『ナブッコ』を振るという。
頑張ってチケットを獲った。
頑張ってチケットを獲った。
そのときのタイトルロール(ナブッコ役)はバリトンのレナート・ブルソン、準主役ともいうべきアビガイッレはリンダ・ローク・ストランマーというソプラノ歌手だった。
王座を追われたナブッコが哀れな囚人に転落してからのブルゾンの歌と演技が圧倒的な印象を刻み、ほかの歌手については覚えていない。
ただ、スカラ座合唱団の合唱は、噂以上、想像以上に素晴らしかった。
低音から高音まで、ピアニシモからフォルティシモまで、どのレンジにおいても一糸の乱れなく、天女がまとう羽衣のように柔らかく艶々しかった。
『行け、わが想いよ』では最後のバスの重低音がNHKホールの空間に飲み込まれるように消えた後、延々と拍手が続いた。アンコールしてくれるんじゃないかと期待したほどだった。
イタリアの第二国歌と言われるこの名曲以外にも聴きどころはたくさんある。
ソルティは、第2幕冒頭のアビガイッレのレチタティーヴォ『運命の書よ』からアリア『かつては私も幸せだった』を経てカバレッタ『黄金の王冠を戴いて』のダイナミックな流れが好きで、マリア・カラス録音のものをたまに聴く。出だしのメロディーが、『庭の畑でポチが鳴く』を連想させるアリアの美しさと哀切さにはいつも心かきむしられる。
第2幕のクライマックスで、ナブッコから開始され、アビガイッレ、ザッカーリア、フェニーナと順に加わり、四重唱から大合唱に展開していく『避けられぬ怒りの時が』も興奮させられる。ドニゼッティ作曲『ルチア』の有名な六重唱と並ぶ名シーン、名アンサンブルだと思う。
そんなこんなで今年の荒川区民オペラが『ナブッコ』と知って楽しみにしていた。
JR山手線大塚駅で都電荒川線に乗り換えて延々40分、庚申塚や飛鳥山公園や荒川遊園地や町屋を通って荒川区役所前駅で下車。
やっぱりチンチン電車はいいなあ~。
これで168円はお得である。
会場(975席)は6~7割くらいの入りだった。
ソルティは2階右ブロックの最後列に近い席を取ったが、ネット予約したときは埋まっていた目の前のブロックがごっそり空いていた。
まとめてチケットを購入したグループが事情で来られなかったのだろうか?
コロナがまた流行っているからなあ。
こういう場合に、当日でも座席変更できるといいのに・・・。
勇ましい序曲に続いて幕が上がり、ナブッコ王に虐げられる人々の合唱が始まった瞬間、あることに気づいた。
「そうだ、これはバビロン捕囚の物語だった!」
つまり、紀元前6世紀にナブッコ(ネブカドネザル2世)が統治する新バビロニア王国に攻め込まれ、神殿を破壊され、捕虜として連行され、バビロニアへの移住を強制されたユダヤ民族の受難の物語だった。
イスラエルのガザ地区侵攻と民間人虐殺が世界中から非難されている折も折、なんとまあ皮肉なことか!
アブラハムの放浪、出エジプト、バビロン捕囚、アウシュビッツ・・・かつての被害者がいま加害者としか言えなくなっている現状にあって、それが大昔の物語とはいえ、ユダヤ民族の受難に心を寄せるのはなかなか難しい。
いったいなぜ、わざわざこのオペラを選んだのだろう?
――と不思議に思ったが、今回イスラエルのガザ地区侵攻が始まったのは2023年10月7日。国際世論がイスラエル批難に傾いたのは年末にかけて。
オペラ公演には長い準備期間が必要だ。
今年の演目はそのときにはすでに決まっていたのかもしれない。
まあ、こんなことが気になるのはソルティくらいかもしれないが・・・。
ときに、『ナブッコ』が日本でなかなか上演されないのは、それが硬派の歴史ドラマであること以上に、準主役であるアビガイッレを歌えるソプラノが少ないからであろう。
本来、鋼のように重く強靭な響きと、蝶々が舞うように柔らかで軽やかな響き、この両方を兼ね備えたソプラノ・ドラマティコ・タジリタのために作られた役なのである。
が、この声の持ち主(マリア・カラスがその一人だった)が滅多に出現しない。
そこで、たいていの場合、後者の声質が犠牲となって、鋼のように重く強靭な響きをもつドラマティック・ソプラノによって歌われることになる。
体格のせいか肺活量のせいか声帯のせいか知らん、日本人の声はやっぱり小さくて線が細く、昔からドラマティック・ソプラノ自体が少ない。
役柄的に多少声がか弱くても許容できる『蝶々夫人』や『椿姫』はなんとか歌えても、猛女烈女が主役で激しい感情表現が必要とされる『マクベス(夫人)』、『トゥーランドット』、そしてアビガイッレは歌える人が限られてしまう。
その意味では、今回アビガイッレを歌った柳澤利佳は頑張ったと思う。
声の足りない部分を、女王らしい毅然たるたたずまいと鋭角的表現で補っていた。
声量の点でいえば、イズマエーレを演じたテノールの秋谷直之が圧巻であった。
ホールの最後列までびんびんと届くヴォリュームと力強さは、欧米の歌手にひけをとらない。恵まれた声の持ち主である。
ザッカリーアを歌った鹿野由之も、朗々としたよく通る声と貫禄ある立ち姿で、舞台を引き締めていた。
抑制の効いた丁寧な歌い回しにベテランの味を感じた。
今回一番の敢闘賞はナブッコ役の野村光洋。
風邪か流行り病か、体調の悪さ、喉の不調は歴然としていた。
本番で、ここまで苦しそうな歌唱を聴いたことがない。
代役(11日にナブッコを歌ったバリトン)を立てられない訳があったのだろうか。
だが、最初のうちこそ失望感に襲われたものの、「声が裏返らないか、かすれないか、音程をはずさないか」、とハラハラしつつ聴いているうちに、次第に心の中で応援している自分に気づいた。
歌い手のもがき苦しむ姿が、ちょうど神の逆鱗にふれて雷に打たれ、正気を失い、アビガイッレによって王位を奪われ監禁されてしまうナブッコの、哀れな老人の苦しみとオーバーラップしていた。
最後までよく頑張った。
荒川区民オペラのなによりの美点は、庶民ならではの親しみやすさ。
手作り感たっぷりの舞台衣装、眼鏡をかけた古代の男たち、赤ん坊を抱えて座席案内するスタッフの姿、カーテンコールでの達成感に満ちた合唱団の誇りかな表情、いずれもが「人が協力して物を作る喜び」という創作の原点を思い起こさせてくれる。
その感動が、来年もまた来ようという気にさせるのだ。
サンパール荒川
どうもサンポールと言い間違えてしまう