1992年光文社
2002年創元推理文庫
お盆休みは例によって4泊5日の秩父リトリートをした。
今回携えていった本が、『スマナサーラ長老が道元禅師を読む』と本文庫であった。
本書はとにかくブ厚い。
小口45ミリ、1000ページを優に超える。
小口45ミリ、1000ページを優に超える。
普通の文庫ミステリーの3~4冊分はある。
そして、かなり難解。
日本のミステリー作家ではもっとも難解な笠井潔の作品の中でも、もっとも難解で重厚である。
まとまった時間がある時に、腰を落ち着けて一気に読むのでなければ、なかなか読み通せないと思い、リトリートまで待っていた。
宿の密室に一人こもって完読した。
途中まで読んで驚いた。
なんとまあタイムリーでヴィヴィッドな小説であったことか!
ソルティは本書の内容について、事前にほとんど知らなかった。
『バイバイ、エンジェル』、『薔薇の女』、『サマー・アポカリプス』、『オイディプス症候群』など素人探偵矢吹駆シリーズのミステリーであること、マルティン・ハイデガーをモデルにした哲学者が出てくるらしいこと、密室殺人が扱われることの3点をのぞいては。
読むにあたって、文庫の裏表紙や扉ページに書かれている内容紹介にも目を通さなかった。
もちろん、ハイデガーを読んだこともなく、どんな哲学を提唱したのか、どんな経歴を持つ人物だったのか、まったく知らなかった。
驚いたわけは、本書の殺人事件の背景をなすのがナチスのホロコースト、すなわち強制収容所におけるユダヤ人大虐殺だったからである。
無意識のなせるわざか。
むろんタイムリーでヴィヴィッドとは、イスラエルによるガザ地区侵攻と民間人虐殺を踏まえての謂いである。
舞台は1970年代のパリ。
成功した実業家フランソワ・ダッソーの屋敷で殺人事件が発生。
被害者は数日前にパリに着いたばかりのボリビア人旅行者ルイス・ロンカル。
後頭部を強打され、背中から心臓を鋭利な刃物で貫かれていた。
しかるに部屋は完全な密室であり、凶器は見当たらなかった。
捜査に関わることになった矢吹駆とナディア・モガールは、ロンカルの正体がナチスのコフカ強制収容所の元所長であること、事件当夜ダッソー家に招かれていた客たちがかつてコフカ収容所に収容されていたユダヤ人関係者であったことを知る。
アウシュビッツ強制収容所
Dimitris VetsikasによるPixabayからの画像
Dimitris VetsikasによるPixabayからの画像
構成は3部に分かれている。
第1部は1970年代初夏のパリ。ダッソー家での三重の密室殺人事件の謎が提出され、犯行動機に第2次世界大戦時のナチスのホロコーストが関係していることが匂わされる。
第2部は1945年真冬の第三帝国ポーランド領にあるコフカ収容所。所長ロンカルの冷酷な管理の下、各地から連行された多くのユダヤ人が、あるはガス室に送り込まれ虐殺され、あるは強制労働に従事していた。ロンカルはユダヤ人女性ハンナを小屋に囲って性的奴隷にしていた。
ソ連軍の侵攻を前に撤退が決まった収容所において突如勃発した爆破事件と囚人脱走。その最中に発生したハンナ射殺事件の謎が提出される。これもまた三重の密室であった。
第3部はふたたびパリに戻る。ナディアと矢吹それぞれの推理が語られ、すべての謎が解明される。そこには20世紀最大の哲学者の秘密が隠されていた。
四半世紀はなれた二つの時代に起きた三重の密室事件の謎を解き、それぞれのトリックと真犯人を暴くという点で、まぎれもなくゴージャスな本格推理小説である。
不可能犯罪が提出される、事件現場の見取り図が掲示される、容疑者たちの事件前後の行動が時系列で整理される、プロの刑事や素人探偵らの推理合戦が白熱する、事件現場でトリックの実現性が検証される、名探偵の鮮やかな推理が事件を解決に導く・・・・。
本格推理ファンのツボを押さえた笠井の小憎らしいほどのサービス精神に感激する。
そう、これこそ本格推理の醍醐味。
ページをめくる手が進む。
と思いきや、打って変わって重厚なテーマが顔をのぞかせる。
ナチスのホロコーストという人類史上未曾有の悲劇は、どうしたって重厚な語りにならざるをえない。読む者は重苦しい気持ちを抱かざるを得ない。
強制収容所の地獄を生き延びたユダヤ人とその子供たち、収容所で働いていた元ナチス党員、同じユダヤ人でありながら仲間を監督する仕事をしていた囚人頭(カポ)、青年時代に対独レジスタンス活動に身を投じたフランス人、ナチスに加担していたドイツ人哲学者・・・。
戦後数十年たっても決して拭い去ることのできない苦痛や怒りや恐れや悲しみや罪悪感や恥が、登場人物それぞれの心にわだかまっている。
コフカ収容所でカポをしていたダッソーの父親は、脱走後に生き延びてフランスに帰国、戦後は実業家として成功した。晩年になって彼が自宅内につくったコフカ収容所のパノラマセットの描写には鬼気迫るものがある。
ずしんと心が重くなるホロコーストの物語に輪をかけて、ページをめくる手を重くするのが時々出てくる哲学談義。
20世紀哲学の雄マルティン・ハイデガーをモデルとしたマルティン・パルバッハ、同じくエマニュエル・レヴィナスをモデルとしたエマニュエル・ガドナスという人物が登場し、現象学的存在論やら死の哲学やら技術文明批判やら革命論やら、小難しい議論が繰り広げられる。
推理小説と思想小説の融合。
これぞまさに笠井ミステリーの真骨頂なのである。
哲学の素養を欠き、ハイデガーもレヴィナスも読んでいないソルティには、高すぎるハードル、いやそれは3000m級の山登りに近い。
リトリート中でなければ、途中挫折した可能性大であったろう。
本格推理ファンでも、本書を読み通すことのできる者は限られるのではなかろうか。
推理小説としてみた場合、二つの密室殺人のうち、第1部(70年代ダッソー家)については見事で、ソルティはトリックを思いつかなかった。犯人も当てられなかった。
ただ、屋敷の滞在客はみな共通の犯行動機を持った強い絆で結ばれた仲間なので、『オリエント急行殺人事件』のように“全員が犯人”という二番煎じの真相はないとしても、犯人をかばうための口裏合わせは当然想定していいだろう。
それぞれの証言は最初から当てにならない。犯行前後の各人の行動は信用し難い。
どの証言も信用できないなら、分かっている確実な証拠から推理を組み立てるという作業が成り立たず、そこは推理小説としては弱い部分かなあと思った。
第2部(1945年コフカ収容所)の密室事件については、設定自体に無理があり、ご都合主義な感が強いように思った。
ユダヤ人が大量にガス室に送り込まれ、犬のように殺される現場にあって、ひとりのユダヤ人情婦ハンナの死の謎をめぐって大騒ぎすることのバランスの悪さはとりあえず置くとしても、密室の設定自体が不自然。
真犯人が、ロンカルにハンナ殺しの罪を着せたいのならば、ハンナを密室に閉じ込めて自殺にみせかける意図が不明。他殺体とわかるようにさらして置くのが自然であろう。
小屋にやってきてハンナの死を知ったロンカルもまた、小屋の外から鍵をかけられて(死体と一緒に)閉じ込められてしまう。
ロンカルが中から小屋の鍵を開けられない以上、ハンナ(の死体)とロンカルが中にいることを知る第三者が外から鍵をかけたと推測するのが自然だろう。
ハンナ殺しの真犯人はその第三者であって、ロンカルは罠にはめられたと考えるのが無理のない推定だろう。
ハンナ殺しの真犯人はその第三者であって、ロンカルは罠にはめられたと考えるのが無理のない推定だろう。
ナディアら探偵たちが本来推理すべきは、第三者が足跡を残さずに小屋から立ち去った方法であり、第三者が誰なのか、である。
ところがなぜかナディアらは、ロンカルがわざわざトリックを使って中から小屋の鍵をかけて、自身をハンナの死体と一緒に密室に閉じ込めたと断定する。
思考回路のおかしさにちょっとついていけない。
また、真犯人はかつてハンナを愛した男だったわけだが、復讐相手であるロンカルをその場で射殺しなかった理由もよくわからない。
収容所の爆破騒動と囚人脱走のどさくさに紛れてロンカルを射殺してもバレはしなかったろうに。(なんて言ったら、その後の物語が成立しないが・・・)
いろいろな疑問は生じたものの、第2部についての犯人の推測は当たった。(ほとんどの読者は推測がつくと思うが)
思想小説としては・・・・まあ満腹になった。
パルバッハ(ハイデガー)哲学のいろいろなテーマが取り上げられていて、目も眩むような高踏的言説のオンパレードにくじけそうになったが、中心となっている命題はおおむね理解できた。
「人間はいつか必ず死ぬ。その事実を直視し、自分の使命を見つけてそれに果敢に立ち向かえ。限られた「生」を尊厳を持って本来の自分を生きよ。目的もない生ぬるい日々を享楽にまみれて生きる豚になるな。英雄となれ。」
というのがパルバッハの「死の哲学」の肝で、元ナチの真犯人も矢吹駆もパルバッハに深い影響を受け、そのように生きんとしてきた。
ところが、ホロコーストという無名のユダヤ人の大量の死体を前にして、真犯人が抱いていた「死の哲学」は瓦解する。というのも、「二十世紀の世界を襲った底知れない凡庸の地獄を、戯画的なまでに典型化した場所が収容所」だったからだ。
かつてマルクス主義革命に身を投じ挫折した体験を持つ(らしい)矢吹もまた、「死の哲学」の正当性に揺らぎを感じている。
かつてマルクス主義革命に身を投じ挫折した体験を持つ(らしい)矢吹もまた、「死の哲学」の正当性に揺らぎを感じている。
なんと言っても、パルバッハの哲学こそがドイツ国民の英雄志向を煽り、ヒトラーの登場を用意し、ナチスの蛮行を可能にしたからである。パルバッハ自身、ナチス党員であった。
しかるに、戦後になってパルバッハは、「自分が支持していたのは初期の頃のナチスであって、長いナイフの夜(レーム事件)以降のヒトラー独裁となったナチスは認めていない。ホロコーストについて知ったのは戦後になってからだ」とうそぶき、自らの哲学の過ちを認めようとしなかった。
その嘘が、コフカ収容所元所長ロンカルの所持していたある証拠によって暴かれ、パルバッハの欺瞞が徹底的にさらけ出される。
つまるところ、「死の哲学」の断罪が思想小説としての本書の主題である。
むしろ、笠井の書きたかったのはこちらであろう。
笠井自身が、若い時に左翼運動に傾倒し、挫折し転向した経歴を持つからだ。(その苦い体験を“自己批判”的に描いたのが処女作『バイバイ、エンジェル』である)
「死の哲学」の断罪という本書の主題に触れてソルティが自然と想起したのは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』であった。(本書と同じ年に刊行されている!)
フクヤマによると、人間を行動に駆り立てる気概(自尊心)は歴史を動かす大きな要因の一つであるが、民主主義と自由主義経済の登場によって「歴史の終わり」が宣言されたとき、気概はその発散場所を失った。
あとに残るは、闘うべき大義を見つけられずに気概を失い、欲望を満たすことを日々の目的とする「最後の人間」である。
「最後の人間」の人生とはまさに西欧の政治家が有権者に好んで与える公約そのもの、つまり肉体的安全と物質的豊かさである。これがほんとうに過去数千年にわたる人類の物語の「一部始終」なのだろうか? もはや人間をやめ、ホモサピエンス属の動物となりはてた自分たちの状況に、幸福かつ満足を感じていることをわれわれは恐れるべきではないのか?(三笠書房刊『歴史の終わり』より抜粋)
パルバッハが唱えた「死の哲学」とは、まさに気概の賞揚、大義への自己犠牲、尊厳ある生と死のすすめである。その対極に来るのは、「数と公共性が最終的に勝利した愚者の楽園」の中で「最後の人間」として生きることである。
「歴史が終わった」平和な世の中で「終わりなき日常」に耐えられない者たちは、気概を発散できる場所を求めて革命運動やテロリズムや戦争を待望する。矢吹駆の宿敵であるニコライ・イリイチのような扇動者に洗脳されて、“誤った”大義に絡めとられていく。『バイバイ、エンジェル』のアントワーヌ青年のように。
矢吹は語る。
どうしても世界に意味を感じられない、平和な時代に窒息しそうだ、本当の人生を見つけることができない。そうした解消されないニヒリズムは、抗いえない猛烈な力で、青年を必然的にテロリズムの方向に押しやる。
凡庸なものを嫌悪する青年が、魂の真実や生の輝きを渇望して、死の観念の蟻地獄に落ちてしまう。
本書の真犯人もまた、「死の哲学」に殉じるかたちでその生を全うした。
彼にはそう生きるよりほかに選択がなかった。
一方、「死の哲学」をパルバッハともに断罪した矢吹駆は、はたしてこの先どう生きていくのだろうか?
彼とっては凡庸で無意味でしかない「愚者の楽園」と、どうつきあっていくのだろうか?
ナディアとの恋愛の可能性はあるのだろうか?
この探究にこそ、本シリーズの意義が、すなわち笠井潔のライフワークがあるのだろう。
今回のリトリートに、本書と道元の解説本を持っていったところに、不思議な符牒いや因縁を感じた。
秩父武甲山
おすすめ度 :★★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損