1942年原著刊行
1961年創元推理文庫(井上一夫訳)

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 高校時代に読んだとき、かぎ煙草入れ(snuff box)というものがどういうものか分からなくて、いま一つぴんと来なかった。
 それを言えば、そもそも「かぎ煙草」というのも日本人には馴染みのうすい風習である。

 ウィキによれば、コロンブスの新大陸航海の際にフランシスコ会の修道士がカリブ諸島からスペインに持ち帰ったのが、ヨーロッパに煙草が広まる端緒だったそうだ。
 またたく間に庶民の間に広まった葉巻や紙巻き煙草やパイプ煙草に対し、上流階級で好まれたのが、細かく砕いた煙草の葉を直接鼻腔内に吸い込む「嗅ぎ煙草」。
 18世紀にはヨーロッパの王室や貴族をはじめ、ネルソン提督ウェリントン公爵、アレキサンダー・ポープ、サミュエル・ジョンソンなど、数多くの著名人に愛用されたという。
 もちろん、皇帝ナポレオンもその一人だった。

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 砕いた煙草を中に詰めてポケットに入れて持ち運びできる密封性の高いケースが「かぎ煙草入れ」。
 ケースの表面に肖像や風景を描いたものや、金、銀、宝石をあしらったものなど、贅を凝らしたものが競って作られた。
 当然、ナポレオンの使っていたかぎ煙草入れともなると、骨董的価値は高い。

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すず製のかぎ煙草入れ
コンドームケースとしても使える(⌒-⌒)
M.
によるPixabayからの画像

 ストーリーもトリックも真犯人の正体もすっかり忘れていた。
 約45年ぶりに読んで、面白さにびっくり!
 かのアガサ・クリスティを脱帽せしめたというトリックや話の構成、「かぎ煙草入れ」を使った解決の糸口も見事ながら、ストーリーが奇抜で先の展開が読めず、ハラハラするような人間ドラマ(恋愛ドラマ、家族ドラマ)が凝縮されていて、単純に普通の小説として面白い。
 美しく魅力的な主人公イヴが、周囲の人間の悪意とあり得ない偶然の連続で殺人事件の容疑者に仕立てられていくサスペンスは、ページをめくるのがもどかしいほどの吸引力を放つ。
 イヴをめぐる男たちの欲望や嫉妬やプライドや小狡さがひとつひとつ暴かれていき、最後にはイヴが真実の愛にたどりつくプロットは、ちょっとしたハーレクインロマンス。
 恋愛小説の名手でもあったクリスティが本作を激賞したのは、本格推理小説としての出来栄えだけではなく、人間ドラマとしての巧みさのせいもあったに違いない。
 一見、純真な好青年そのものだが一皮めくれば・・・・イヴの婚約者トビイ・ロウズの人物造型など、令和日本の現代でも普通にいそうなリアリティ。 
 やはり、カーの長編小説の中では本作がトップ1、少なくともトップ5に入るのは間違いないと思う。

 トリックと真犯人については、3分の1ほど読んだところでソルティは直感した。
 高校時代のうぶなソルティなら騙されただろうが、古今東西ミステリー数百冊読破のいまは、作者の手の内を見抜くのにさしたる苦労はない。
 と言って、その先は読むまでもないという気にはさせないところが、カーの筆力の凄さ。
 筆力と言えば、本作にはクリスティのある名作を彷彿させる文章上の仕掛けがある。
 いったん読み終えて真犯人を知ってからもう一度読み返すと、カーの叙述の巧みさに痺れる。
 読者は、あるパラグラフと次のパラグラフの間に、ある文章と次の文章の間に、書かれていない重要な事柄があったことを、最初に読んだときはちっともそこに注意を払わず通過していたことを、知ることになろう。
 作者にしてみれば「してやったり」だ。

 本作の最大の欠点は、「かぎ煙草」ならぬ「鍵」の問題だろう。
 同じ鍵を、同じブロックに建てられた6つの家の玄関ドアで共有しているという設定は、いくらなんでも不自然すぎる。
 そんな家など買いたくないし、買ったとしてもすぐに鍵を取り換えるのが常識だろう。

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SchluesseldienstによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損