初出1967~1984年
2024年新潮文庫
収録作品
アルマジロの手
心中狸
月と鮟鱇男
海亀祭の夜
蓮根ボーイ
鰻池のナルシス
魔薬
あたし、宇能センセイの短編集第2弾が発売されたのを知って、あそこがツンと尖っちゃったんです。
第1弾『姫君を喰う話』の衝撃がよみがえって、体じゅうの血がたぎるような感じになって、家事が手につかなくなっちゃたんです。
自分でも気がつかないまま財布を握りしめて、近所の本屋に飛び込んだら、店主のおじさんが舐め回すような目であたしを見るんです。万引きじゃないのに・・・。
ふるえる手を押さえながら棚から文庫を取り出したら、九鬼匡規(まさちか)センセイの描いた太もも丸出しの吸血娘がうるんだ瞳であたしを睨むんです。
もう、のどはカラカラに乾くわ、胸はバクバクするわ、足はブルブル震えるわ、しまいにはじっとりした液体がにじみ出て、下着をしとどに濡らしちゃったんです。
わきの下から。
――とまあ、本書を手にした感動をおおげさに記してみたが、実際、「やったね、新潮!」と声を上げて褒めたたえたい気分であった。
どちらかと言えば「左」のソルティは新潮社が好きでないのだが。
第1弾に勝るとも劣らない奇怪で面白い短編ばかり。
宇能鴻一郎の強烈な個性と才能に酔うとともに、昭和文学の豊穣を再認識し、堪能した。
『アルマジロの手』はメキシコが舞台の痴情怪談。当地での伝統的な男から女への求愛の風習が描かれているのが興味深い。中世西欧でお城の窓の下でリュートを爪弾きながら貴婦人への恋を唄ったトロヴァトーレ(吟遊詩人)を思わせる。さすがに現在は廃れていると思うが、どうなのだろう? 84年発表ゆえか、主人公の姿にバブル期のビジネスマンを思い出した。
『心中狸』は淡路島が舞台のエロ妖怪談。弘法大師が狐を追っ払ったため、四国のお稲荷さんの眷属は狐ではなく狸だという話を思い出した。狸は腹の出た中年オヤジを思わせるためか、猥談のドジな主人公にぴったりだ。
『月と鮟鱇男』はエロ犯罪譚。恐ろしいプロットの中に、食欲と性欲のつながりをコミカルに描き出す。主人公の男にマゾヒストで大の食通だった文豪谷崎潤一郎をダブらせてしまった。
『蓮根ボーイ』、『鰻池のナルシス』、『魔薬』では女色に並んで男色が描かれている。
人間の「性」という魔物の前では、対象が男だろうが女だろうが関係ないのだということを宇能鴻一郎はよく分かっていた。
大江健三郎の『飼育』にも似た戦後GHQ占領下の空気が匂う『蓮根ボーイ』、もうちょっとでポルノ作家宇能鴻一郎誕生につながりそうな『鰻池のナルシス』、インドが舞台の男色版『痴人の愛』といった風情の『魔薬』、どれもすこぶる面白かった。
これらの作品を前にしてつくづく思うのは、小説の面白さというのは――少なくともソルティにとっては――いびつで理不尽で残酷な社会や、いびつで愚かで欲深い人間の“畸形”をありのままに映し出すところにあるってことだ。
"畸形”こそが面白さの要。
ここに収録されているいずれの作品も、令和の各種ハラスメント基準や求められる人権感覚やSDGs観点から見たら、たいへんな問題作(炎上作)ばかりである。
たとえば、『アルマジロの手』は第三世界の女性に対する性的搾取と動物虐待、『海亀祭の夜』は女性の権利侵害と動物虐待、『魔薬』はジャニーズびっくりの少年誘拐と性虐待が題材となっている。
平成生まれの作家にはなかなか書けないし、そもそも思いつかないテーマだろう。
いや、同じ昭和であっても、戦後生まれの作家にも書けないかもしれない。
平和・人権・民主主義の戦後社会からは、なかなか生まれてこないテーマであるし、出版社も様々な方面からの“糾弾”の可能性を考慮せざるを得ないし、そもそも読む人がそれほどいるとは思えない。
ポリコレと自主規制が進んだ令和にあっては、“時代遅れの昭和の害悪の見本”と批判されるリスク大である。
ポリコレと自主規制が進んだ令和にあっては、“時代遅れの昭和の害悪の見本”と批判されるリスク大である。
いまなぜ宇能鴻一郎の小説が人気を集めているのか。
思うに、令和コンプライアンスの締め付けの中、言動に気を使い、息詰まる思いをしながらも、「人間てきれいごとばかりじゃないよな」と思っている昭和育ちが多いからではないだろうか。
思うに、令和コンプライアンスの締め付けの中、言動に気を使い、息詰まる思いをしながらも、「人間てきれいごとばかりじゃないよな」と思っている昭和育ちが多いからではないだろうか。