自己中のススメ

日時 9月8日(日)13:30~
会場 滝野川会館大ホール(東京都北区)

 このホールに行くのは初めて。
 北とぴあの他にこんなに立派なホールがあるなんて、北区って裕福なん?

 そのうえ、この会館の目の前には国指定の名勝・旧古河庭園がある!
 昨年3月に訪れた時はまだ冬枯れの寂しさが漂っていた。
 いまの時節はどんなだろう?
 1時間ほど前に現地入りし、庭園を散策した。

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都立旧古河庭園
入園料 大人150円

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高台にある東屋より庭を見下ろす

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人の少ない静かな庭園は瞑想にも向いている

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滝音が暑さを和らげてくれる

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作庭は京都無鄰菴で有名な小川治兵衛

古河庭園
2023年3月中旬

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同じ地点からの撮影
紅葉の頃にまた来よう

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滝野川会館
JR京浜東北線・上中里駅から徒歩10分

 滝野川会館大ホールは502席、そのほとんどが埋まっていた。
 盛況である。
 心なしか若い人が多いような気がしたが、考えてみたら自分がどんどん年を取っていく分、(自分より)若い人が増えるのは当たり前の話であった。
 赤ん坊連れの夫婦の姿もあった。
 テーラワーダ仏教に興味を持つ両親に育てられる子供はどんな子になるのだろう?

 今回のテーマ「自己中のススメ」とは、要点だけ言えば、「他人のことにかまけるより、自分の修行を大事にしなさい」ということである。
 人が唯一できるのは自らの心を清らかにし、自らを幸福にすることだけである。
 他人の心を清らかにすることも、他人を幸福にしてあげることもできない。
 自分と他人は、おのおのの認識が捏造したまったく異なる世界に住んでいて、おのおのが「わたしの世界こそ正しい」と思っている。
 なので、自分自身の認識のありよう――それは無明と渇愛によって汚れており、ありのままの事実とはかけ離れている――を観察によって知り尽くして、それを変えていかない限り、下手に他人に関わることは混乱を増し、双方に害をもたらすだけ。

 他人のために生きることは絶対的善ではない。
 他人のために尽くすことに専念して、自分の幸福を破壊してはならない。
 自分の幸福とは何かを知って、そのために精進すべき。

 ――といった内容であった。

 簡単にまとめてしまったが、実はこれ、仏教史にかかわる大問題なのである。
 つまり、紀元前後頃に仏教が小乗仏教と大乗仏教という二つの流れに別れた、そもそもの原因に関係しているからである。
 仏教学者の宮元啓一著『ブッダ 伝統的釈迦の虚構と真実』(光文社文庫)から引用する。

 ゴータマ・ブッダ自身も含めて、伝統仏教は、おおむね出家至上主義であった。輪廻転生の苦しみの世界から解脱して涅槃の境地に到達できるのは出家だけであり、在家の信者は、出家に奉仕することなどで功徳を積み、せいぜい死後に天界に生まれ変わるのを最高の目標とすべきだとされる。

 伝統仏教の出家至上主義にたいして、紀元前2世紀ごろから、すでに述べた讃仏運動を背景に、また、仏塔崇拝を背景に、そしてまた、民衆宗教として成功を収めつつあるヒンドゥー教の救済主義へのあこがれのなかで、主として在家信者のあいだから、民衆的で救済主義的、あるいは神秘主義的な新しい仏教を創る運動が展開し、紀元前後にはつぎつぎと経典が編纂された。
 こうして創出された仏教を、その担い手たちは「偉大な乗り物」という意味で「大乗仏教」と呼び、出家至上主義の部派仏教(とくに説一切有部の仏教)を「劣った乗り物」という意味で「小乗」と呼んで蔑んだ。
 
 想像するに、僧院の中で自らの修行と教理研究にかまけ、外の世界の苦しみや在家信者の救済に関心をもたない出家者たちの姿に、疑問や反感を抱いた少なからぬ人々がいたのだろう。
 彼らにしてみれば、自分一人の悟りだけを追求する小乗仏教は、利他心に欠けた「自己中」に見えたのである。
 これは、日本で言えば、貴族のほうばかり向く既成仏教に対して、大衆の救済を説く鎌倉仏教が起こった経緯を考えれば理解できることで、大乗仏教的な流れが生じたこと自体に不思議はないと思う。

 ただ、初期仏典(『阿含経』)を読めば、ブッダや悟った弟子たちが各地を遍歴し、民衆の間に入って法を説き、苦しみから解き放たれる道を示したのは明らかである。
 アングリマーラのような稀代の悪人さえ救ったではないか。
 どう考えたって、これは利他行である。 
 つまり、初期仏教=小乗仏教ではない。断じて。
 それがいつの間にか民衆から乖離していったのではなかろうか。
 学者先生たちがいわゆる“象牙の塔”に住んで世間に疎くなり大衆を見下すように、その頃の出家者たちも国王や長者といったパトロンの厚遇を受けるうちに、「遍歴して乞食して民衆に法を説け」というブッダの教えをなおざりにする傾向が目立ったのではあるまいか。

 ――というのがソルティの推測(根拠なき主観 or ありがちなストーリー)である。
 としたら、その揺り戻しとして、“大衆の方を向いた”仏教が求められるのは自然であろう。
 問題は、それが行き過ぎてしまって、各々が修行によって智慧を開発し苦しみを終焉すること(自力本願)よりも、神や仏に祈願して救済をはかること(他力本願)に軸がずれてしまい、『阿含経』以外の新たな経典を創作し始めて、もともとのブッダの教えから離れてしまったところにあるのではなかろうか。

 スマナサーラ長老の日本での骨身惜しまぬ布教活動にみるように、あるいはミャンマー(旧ビルマ)のテーラワーダ僧侶たちの平和を求める行動にみるように、こんにちのテーラワーダ仏教もまた「小乗」という言葉は似つかわしくない。 
 本来の仏教は小乗でも大乗でもなくて、誰もが乗ろうと思えば乗れるけれども、天界なり涅槃なりに運んでくれるのは神でも仏でも尊師でもなく、他ならぬ自分の努力のみ――つまり、バス(大乗)でもなく、ハイヤーでもなく(小乗)、自転車でってところだろう。
 スマナサーラ長老は自転車の乗り方を教えているのである。 

 最後に。
 「自己中のススメ」は、しかし、「人助けをするな、ボランティアや奉仕活動をするな」という意味ではあるまい。
 溺れた子供を助けるな。列車の中で老人に席を譲るな。災害にあった地方の復興を手伝うな。近所の公園がゴミで汚れていてもほうっておけ。友人の相談に乗るな。
 そんな無慈悲な世界にはだれも住みたくない。

自己の幸福をなおざりにして他人のために頑張るのはエゴイスティックなアプローチになる

 というスマナサーラ長老の言葉が示すのは、対象への心理的依存(当然、共依存も含む)をもたらすような形の、つまりは貪瞋痴を強める形の慈善活動にはまってはならないという意ではないか。
 と、ソルティもまた、乏しい対人支援の経験を通じて思うのである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


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上中里駅前の百日紅(サルスベリ)


本記事の内容はソルティの主観に基づくもので、文責はソルティにあります。実際の講演内容は日本テーラワーダ仏教協会のホームページ等でご確認ください。