1904年(明治37)博文館刊行
2004年白水社(長沢和俊・編)
写真左はダライ・ラマ13世、右は河口慧海
世界の秘境と言われるチベットに初めて入国した日本人しかも僧侶として、河口慧海のことは気になっていた。
『チベット旅行記』あるのも知っていた。
が、なにせ明治時代に書かれた書物であるし、著者が仏教僧ともなると、表現面でも内容面でもなかなか取っ付きにくいのではないかと、これまで敬遠していた。
9月初旬、世田谷にある九品仏浄真寺に行ったとき、境内の一角に大きな石碑があるのに気づいた。
近寄って碑文を読んでみたら、河口慧海の記念碑だった。
1945年(昭和20)2月4日に慧海は80年の生涯を終えたが、晩年を過ごしたのが世田谷区代田だったのである。(跡地は現在「子どもの遊び場」になっている)
記念碑は、近親者や弟子たちが慧海の十三回忌にあたって建てたものだった。
「もしやこれは、九品仏のあるいは本尊釈迦如来仏のお導きか?」
そう思って、『チベット旅行記』に挑戦してみる気になった。
そう思って、『チベット旅行記』に挑戦してみる気になった。
読んで間もない石川勇一著『ブッダの瞑想修行』、石川コフィ著『筋肉坊主のアフリカ仏教化計画』が後押ししたのかもしれない。
ソルティは、古くは『西遊記』の三蔵法師や遣唐使船に乗った最澄・空海、あるいは齢60にしてインド行きを志した高丘親王、新しいところでは龍樹菩薩のお告げを受け南インドで布教活動を始めた佐々井秀嶺や禅に惹かれてドイツから日本にやって来て僧侶となったネルケ無方など、真の仏法を求めて遠い異国に飛び込む男の話を聞くと、わけもなく感激するタチなのだ。
浄真寺にある河口慧海記念碑
河口慧海は1866年(慶応2)大阪の堺生まれ。
10代の時に読んだ『釈迦一代記』に感銘を受け、仏道を志す。
23歳で上京、井上円了の哲学館(東洋大学の前身)で哲学・宗教を学ぶ。
25歳で当時本所にあった五百羅漢寺の住職から得度を受け、慧海の名を授かる。その後、同寺の住職を務める。(ソルティが昨年9月に訪れた目黒のらかんさんである。ここにも縁があった!)
32歳の時、「大乗経の仏典を原書(サンスクリット経典)にもっとも近いと言われるチベット経典によって学びたい」という思いが高じて、当時厳しい鎖国政策を取っていたチベットに行く一大決心をする。
1897年(明治30)6月、日本を船出し、カルカッタに入る。
ダージリンで1年半ほどチベット語を学んだのち、ネパールのツァーランでチベット仏教と文学を1年ほど学ぶ。
1900年3月、ツァーランを出立、関所のないヒマラヤの間道を越えてチベット入国。丸一年かけてチベット南部の雪原を西から東へと横断、1901年3月に首都ラサに到着。
ラサでは、チベット人と偽って仏教大学に入るとともに、チベット仏典を収集。ひょんなことから医師としての評判が高まり、ダライ・ラマ13世謁見の栄誉を得る。
1902年5月、日本人であること、密入国したことが露見。捕縛、処刑の危険が身に迫り、急遽ラサを離れ、チベット出国。
1903年5月、帰国。
本書は上下巻から成る。
博文館から出た原著を、編者の長沢和俊が現代文風に改稿し、下巻については適宜要約している。
なので、断然読みやすく、サクサクと進んだ。
こんな面白い本と知っていたら、もっと早く手を付けるんだった。
上巻は日本を出発してからラサに到着するまでの旅行記――というか、八甲田山ならぬヒマラヤ“死の彷徨”であり、難行苦行のサバイバル記録である。
水難、雪難、砂難、風難、凍難、食難、渇難、病難、呼吸難、盗難、賊難、女難、遭難、犬難・・・ありとあらゆる災難苦難が次から次へとやって来て、「もはやこれまで」と死を覚悟すること数回、信じ難いような煉獄めぐり。
あたかも太平洋戦争末期の日本兵の行軍体験を読んでいるようで、違うのは、慧海がその旅程のほとんどを文字通り孤軍奮闘した(荷物を運ぶロバやヤクや馬は別として)ことと、召集令状や上官の命令によってではなくて自らの意志と信念でこれを遂行したことである。
道中出会ったチベット人の数々の親切や、神仏が棲まうヒマラヤの壮麗な光景に助けられたとはいえ、慧海の頑健な肉体と強靭な精神、お釈迦様への揺るぎない信心、そして奇跡のような運の良さには驚嘆せずにはいられない。
ネパールのツァーランからラサまでの丸一年、十分な装備も資金も地図も持たない約4000キロの慧海の歩き旅にくらべると、ソルティのやった四国歩き遍路(約2か月で1400キロ)はまったくの大名旅行である。
下巻はラサでの生活からチベット脱出までが記されている。
今から120年前のチベットとくにラサの様子が率直な筆致で描かれ、興味をそそる。
風土、気候、産業、人民、文化、風習、宗教、政治、祭礼、食、結婚制度・・・・。
江戸時代の日本のような鎖国をしていたがゆえに、前近代がそのまま残っている、何百年も続いてきた文化や風習がガラパゴス的に保持されているチベットの姿にたまげるばかり。
もともと大らかな性格のうえ釈尊の教えにしたがって慈悲を実践している慧海は、日本人から見てどれほど奇異に見える風習や伝統も、一方的に批判したり忌避したりすることなく、ありのままに受け入れようとしている。
が、生まれてから一度も体を洗ったことがなく、着替えもせず、街路に平気で便を垂れ流し、そのあと尻を拭かないチベット人の不潔さにだけは閉口したようだ。
まず嫁を取るときに、娘はどういう顔をしているかというと、垢で埋もれてまっ黒になっていて、白いところは目だけ、手先でもどこでも、垢で黒光りに光っている。それに着物というと垢とバターのために黒くうるしのごとく光っている。これが娘の福相を現わしていることになるのである。もし娘が白い顔をしているとか、手先や顔でも洗っているということを聞くと、そんな娘は福が洗い落とされているから、お断りということになってしまう。
薬と言えばチベットには奇妙な薬がある。その本体を知った者はおそらくチベット人を除いては誰も飲むことができぬだろうと思われる。それは法王とか第二の法王などの高等のラマの大便を乾かして、それにツァ・チェン・ノルブー(宝玉)という奇態な名をつけ、薬として用いるのである。それはけっして売り出すのではなく、よいつてがあればお金をたくさんあげてようやくもらうことができるといったもので、非常な大病になったとか、臨終の場合にそれを一つ飲むのである。
どこまで本当のことなのか、あるいは慧海の観察し記した通りだとしても現在も変わらないままなのか、まったく知るところではないが、ともかく風変わりで面白い逸話ばかりである。
ラサのポタラ宮殿
肝心のチベット仏教についてもまた奇天烈このうえない。
慧海によれば、チベット仏教は大別して古教派(赤帽派)と新教派(黄帽派)の二種類がある。もちろんいずれも、日本仏教と同じく北伝の大乗仏教に属する。
古教派を開いたのはロポン・ペットマ・チュンネというインド人。
この人は僧侶でありながら肉食、妻帯、飲酒などを励行しただけでなく、仏教の主義に自分の肉欲主義を結びつけて、巧みに仏教を解釈し、成仏の唯一の手段、最上秘密の方法として、僧侶たる者は女を持ち、肉を食い、酒を飲み、踊りかつ歌うということが最も必要である。この方法こそ五濁の悪世において、その場で成仏解脱を遂げうる甚深微妙の方法である、と教えたのである。
まるで日本にかつてあった真言立川流のよう。
古教派は500年くらい前までは盛んだったが、腐敗を極め、チベットの倫理の乱れを促進したので、新教派が起こったという。
新教派の開祖はジェ・ゾンカーワというチベット人で、「戒律がなくては僧侶とは言えない。僧侶が女を持てば俗人と変わらない。仏法を滅する悪魔である」と言い、仏教の清浄化(正常化)を図った。
これは日本仏教においても事情は似たり寄ったりで、僧侶の破戒と戒律運動の勃興は、いたちごっこのごとであった。
もっとも、日本の寺院の場合、明治までは女色より男色のほうがはびこっていたし、明治以降は僧侶の妻帯が許されたので、現代の日本の僧侶はほとんどチベットの古教派と変わるところがない。
慧海自身は、酒を飲まず、肉食をせず、一日一食のみ午前中にとり、生涯独身を貫いた。チベットでも現地の女性から言い寄られるのを巧みにかわしている。
しっかりと戒を守る清僧だったのだ。
そんな慧海の目から見たとき、苦難の末に到達したラサにおいて、他ならぬダライ・ラマのお膝元で修行する幸運に恵まれた何千という僧たちの姿は、失望以外のなにものでもなかったろう。
本書ではそのあたりの心情が記されていないが、推して知るべし。
いったい僧侶や学者が理想として、自分がかくなりたいと希望しているのは、たいていはこの閉ざされた国において、名声を高めたいということと、財産をたくさん得たいというのが目的で、衆生済度のために仏教を修行するのではない。この世も安楽に、未来も安楽に行けるようにというのはまだよいほうで、未来はどうでも、その学問を利用して、社会に名を上げ、そしてたくさんの財を得て安楽に暮らせばよいというのが、1000人の中999人までの傾向である。
普通人民の下に最下族というのがある。それは漁師、船頭、鍛冶屋、屠者の四つである。鍛冶屋はなぜ最下族の中にはいっているかと言うと、これはインドと同じで、鍛冶屋は屠者が動物を殺すその刀や出刃包丁をこしらえるところから、罪ある者としているからである。この普通人民と最下族の二種類は政府の学校にはいることができない。ことに最下族の者は、遠方に行って自分が最下族であるということを隠さないかぎり、僧侶になることも許されないのである。
つまるところ、日本でも中国でもチベットでも、大乗仏教がもともとのお釈迦様の教えからぐんぐん離れていき、サンガ(出家者)が俗化していったことは、令和の我々から見れば明らかなのであるが、明治時代の慧海には知りようがなかった。
本書で知ってびっくりしたことに、慧海は日本を出発する前に、インドを研究するために釈興然のもとで教えを受けている。
釈興然(1849-1924)は、セイロン(いまのスリランカ)に留学し、日本で初めてテーラワーダ仏教の出家者となった僧侶であった。
つまり、「真の仏法=お釈迦様の教え」を真摯に求めていた慧海は、命の危険をおかしてインドやネパールやチベットに行かずとも、日本にいて釈興然のもとそれを学ぶことができたのである!
釈興然が熱心に説かれたことは、「そんな大乗教などを信じてチベットへ行くなどという雲をつかむような話より、ここに一つ確実なことがある。それはまずセイロンに行って、真実の仏教を学ぶことである。学べば仏教の本旨がわかるから、大乗教云々など言ってはいられない。私の弟子として行きさえすれば船賃も出るし、また修学の入費もできるわけだから、そういうふうにして行くがよかろう。(略)」と言ってしきりに勧められた。
しかるに、当時の日本の仏教界の風潮に感化されて、大乗仏教こそ真実の釈迦の教えと確信し、テーラワーダ仏教を“小乗仏教”と見下していた慧海は、釈興然と袂を分かってしまう。
これは日本の近代仏教史において、看過できない決定的瞬間の一つと言っていいだろう。
もし、慧海がここで釈興然の勧めにしたがってチベットでなくスリランカに旅していたら、慧海がそこでパーリ経典を学びヴィッパサナ瞑想を修していたら、俗世間から離れて厳しい戒律を守りながら修行するサンガに出会っていたら、そして悟り(預流果)を得た慧海が日本に帰国し、その抜群の行動力と多大なる影響力とでテーラワーダ仏教を広めていたら、その後の日本の宗教界の構図は大きく変わっていたかもしれない。
いや、社会的なことはともかく、慧海自身が人生の目的を成し遂げた達成感のうちに来世に旅立てたかもしれない。(禅定の達人であった慧海なら、ヴィッパサナ瞑想によって悟るのは時間の問題だったろう)
詳しい事情は知らないが、慧海が50代半ばになって還俗しその後は「在家仏教」を提唱したことを思うと、その心情をいろいろ想像せざるを得ない。
これもまた因縁のなせるわざなのだろうが。
信仰上のことはともかくとして、河口慧海が稀なる超人であり、才人であり、偉人であり、人間的魅力あふれるスゲェー男であったのは間違いない。
意志堅固、勇猛果敢、大胆にして機敏、高い志操、明晰な頭脳、高い語学力、ダライ・ラマの侍従医に推挙されるほどの医術の腕、度量の広さ、誠実さ、欲の無さ、友誼の厚さ、天を味方につける運の良さ。
これほどの男の事績を埋もれさせてしてしまうのは過誤である。
これほど面白い旅行記が読まれないのは勿体ない。
チベット探検記では、オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの手記を原作とし、ジャン=ジャック・アノー監督×ブラッド・ピッド主演で映画化された『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997)が有名である。
もし本書が同監督によって映画化されていたら、それをはるかにしのぐ娯楽冒険スピリチュアル大作になっていたのは間違いあるまい。
慧海役は、そうねえ~、『八甲田山死の彷徨』に出演した北大路欣也なんかどうだろう?
「天は我々を見放した!」
もし本書が同監督によって映画化されていたら、それをはるかにしのぐ娯楽冒険スピリチュアル大作になっていたのは間違いあるまい。
慧海役は、そうねえ~、『八甲田山死の彷徨』に出演した北大路欣也なんかどうだろう?
「天は我々を見放した!」
おすすめ度 :★★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損