2024年NHK出版新書
夕食後に85歳になる母親とだらだらとバラエティ番組を見ていたときのこと。
不意に彼女が言った。
「そういえば、最近あの子見ないね。どうしたんだろ?」
「あの子って、誰?」
「ほら、頭にカラフルな飾りつけて、いつもショートパンツ履いてるにぎやかな女の子」
誰のことかと思ったら、フワちゃんだった。
そうか。ニュースの入手先が昔ながらのテレビと新聞と週刊誌などの”旧メディア“しかない母親にとって、フワちゃんの舌禍事件と芸能活動休止は自らのまったく知らないところで起こっていたのか。
毎日ヤフーニュースに目を通して、ヤフコメにおけるフワちゃんへの手厳しい批判を読んでいたソルティは、活動休止に至る一連の流れをいちおうは把握していた。
が、ネットをやらない母親のような高齢者にしてみれば、フワちゃんは理由もなく唐突にテレビ画面から消えたように見えたのである。
もしかしたらテレビの芸能ニュースなどで事後的に取り上げられていたのかもしれないが、フワちゃんによる不適切なSNSへの書き込み(8月4日)から、それが炎上して休止宣言に至るまで(8月11日)の流れがあまりに速くて、テレビや週刊誌ではフォローしきれなかったであろう。パリオリンピックの最中でもあったので、ニュースヴァリューとしても小さかった。
ネットで始まって、ネットで問題化され、ネットで収束した――すべてがネット上で起こりネット民だけが知っている、いわばヴァーチャル性の高い出来事だった。
考えてみたら、そういう事件や話題――ネットをやらない人にとっては知らないうちに起こって、知らないところで騒ぎになって、知らないうちに収束している――が多くなった気がする。
たとえば、『セクシー田中さん』ドラマ化問題とか、トランスジェンダーの女子トイレ使用問題とかも、ネットでは一時ずいぶん騒がれて議論沸騰していたけれど、ネットを離れたところで、はたしてどの程度はっきりと社会問題として可視化され、幅広い世代に認知されていたのか、はなはだ疑問に思う。(逆に言えば、これまで旧メディアでは取り上げられにくかったイシューが、ネットの登場によってある程度可視化されるようになったということかもしれない)
同様に、ネット世論と一般世論との懸隔も日々感じざるを得ない。
ソルティの場合、SNSは主としてX(元ツイッター)とヤフコメに目を通している。
日毎に度を増していく内容の劣化(感情垂れ流し、差別偏見まき散らし、罵詈雑言、エログロ化、暴力化)についてはうんざりするばかり。昭和の頃の便所の落書きと変わるところがない。
が、とりあえずそれは措いといて――。
ある一つの政治的イシューが世間で持ち上がった時に、ネット内で主流となる意見(ネット世論)と、ネット時代以前の旧メディアを中心に形成される世間の多数派意見(一般世論)とが、かなりズレていることが気になっていた。
たとえば、2023年4月の統一地方選挙。
これは、2022年7月の安部元首相の暗殺があったあとに行われた最初の大きな全国レベルの選挙だった。
自民党と旧統一教会の癒着が白日の下にさらされ、関与した議員は責任逃れに終始した。
SNSでは圧倒的に反自民のコメントが多く見られた。
地方自治体の首長や地方議員の中で旧統一教会と関わりの深い自民系の候補の名前がネットで上げられていた。
ソルティは当然、自民党にとって打撃的な結果が出るものと思っていた。
自民党と旧統一教会の癒着が白日の下にさらされ、関与した議員は責任逃れに終始した。
SNSでは圧倒的に反自民のコメントが多く見られた。
地方自治体の首長や地方議員の中で旧統一教会と関わりの深い自民系の候補の名前がネットで上げられていた。
ソルティは当然、自民党にとって打撃的な結果が出るものと思っていた。
ところが、蓋を開けてみると、選挙前半戦の41道府県議選では自民党は改選前よりわずか5議席失っただけで、総定数の過半数(1153/2269)を確保した。
むしろ、左翼系政党である共産党(24議席減)と社民党(19議席減)の衰退が目立った。
むしろ、左翼系政党である共産党(24議席減)と社民党(19議席減)の衰退が目立った。
また、2024年7月の東京都知事選。
Xでは立憲民主党を離党して出馬した蓮舫を支持するコメントがあふれていた。
都民に未知数の石丸伸二はともかく、現職の小池百合子を批判する声が多勢であった。
選挙戦の終盤においては、個人で自発的に蓮舫を支持する「ひとり街宣」活動が広がり、何か新しいうねりが起こっているような印象さえあった。
「ひょっとして、ひょっとするぞ」と思った。
都民に未知数の石丸伸二はともかく、現職の小池百合子を批判する声が多勢であった。
選挙戦の終盤においては、個人で自発的に蓮舫を支持する「ひとり街宣」活動が広がり、何か新しいうねりが起こっているような印象さえあった。
「ひょっとして、ひょっとするぞ」と思った。
ところが、これまた蓋を開けるまでもなく、投票締切りと同時に小池百合子の当確が出た。
現職の圧倒的勝利だった。
のみならず、蓮舫は石丸にも及ばず3位に甘んじることになった。
ネット左翼の敗北は明らかであった。
現職の圧倒的勝利だった。
のみならず、蓮舫は石丸にも及ばず3位に甘んじることになった。
ネット左翼の敗北は明らかであった。
ネット世論と一般世論の乖離は否定できないものとして、その原因はどこにあるのだろう?
SNSはどの程度、一般世論に、つまり社会に、影響を与え得るものなのだろう?
ネット世論はどんなふうに形成されるのだろう?
そんな疑問を抱いていたところ、発行されて間もない本書に出会った。
著者の谷原つかさは、1986年生まれの社会学者。
もとはメディア史を専門としていたが、新型コロナウイルスの流行をきっかけに、人々の情報行動を定量的に把握しようとするscienceに転向したという。
つまり、統計学を用いた実証的な社会学ということだ。
本書でも、様々なアンケート調査やネット上の言説のデータ分析を統計学の手法を用いて実施し、解読結果が披露されている。
個人の直感や実感やイメージや感想や見当、すなわち主観ではなく、データという客観によって、「日本のネット世論の構造、分布、実態、影響を明らかに」しようという野心的試みである。
取り上げられる事例は、2021年10月の衆議院議員選、2022年7月の参議院議員選、安部元首相の国葬、2023年4月の大阪府知事選、そして、2022年にBBCが報道したことがきっかけで表面化したジャニーズ事務所の性加害問題である。
最近注目を浴びたヴィヴィッドなものばかりなので非常に興味深く、また、旧メディアにおける”識者“らのご意見とは違った、データ分析という科学的視点から、これらの事象を見つめなおすことができて、面白かった。
ネット世論を理解する上で押さえておきたい、いくつかの重要なキーワードが紹介されている。
忘備のため記載しておく。
● 世論(せろん)と輿論(よろん)の違い
論理や理性、知識に基づいた意見が「輿論」、誰が担っているのかも判然としない感情に基づいた意見(これは「空気」とも言える)が「世論」。
● フィルターバブル
アルゴリズムによって、利用者が好ましいと思う情報ばかりが提示されること(フィルタリングと言う)により、一方的な見地に立った情報しか手に入らなくなる状態。たとえば、リベラル系のウェブサイトを訪れた人はリベラル系のウェブサイトばかり、保守系のウェブサイトを訪れた人は保守系のウェブサイトばかりを目にすることになる。
● エコチェンバー
閉じたコミュニティの中での同意見ばかり飛び交う環境に身を置くと、意見が過激化・固定化される現象。
● 沈黙のらせん理論
個人は常に世間の意見風土を気にしているということを前提に、自分の意見が多数派と一致していると認識すると、自分の意見を公に表明する傾向が強まる、逆に、自分の意見が少数派であると認識すると、表明を控える傾向があるという理論。ただし、ソーシャルメディア(SNS)にあっては、少数化を不可視化するのではなく、逆にX上で盛り上げるものとして作用している。(トランスジェンダーの女子トイレ使用をめぐる問題はまさにそれに該当しよう)
さて、上記の事例について谷原らが実施したアンケート調査、およびSNSに投稿された膨大な量のコメントを分析した結果として、あるいは他の研究者によるものとして、谷原はいくつかの知見をここで紹介している。
- X利用者のプロファイル・・・大卒で都市在住の傾向があり、未婚者で、政治にはある程度満足しており、投票は行っている。
- 少数のアクティヴユーザーがネット世論を形成している。(0.2%のアカウントが約52%のX世論を作っていた)
- ソーシャルメディア(SNS)には感情(特に怒り)を伝染させる力がある。
- フェイクニュースは真実にくらべて広まりやすい。(たとえば、フェイクニュースがリポストされる回数は、真実のニュースよりも70%多い) また、感情的な投稿のほうが広まりやすい。
- ソーシャルメディア(SNS)による社会運動は、内部でも一枚岩でなく、様々な人が様々な意見を持ち、それを調整する強力なリーダーシップを持たない。
これらは今までも実感として分かっていたことであるが、きちんとデータ分析した結果として示されることには意義がある。
ソルティが疑問を抱いていた、ネット世論と実際の選挙結果の食い違いについては、次のように回答されている。
世の中には、自民党を嫌いな層が一定のボリュームで存在する。その人たちの思いが強く、ネット上で投稿を頑張るからだ、ということになります。
著者は最後に、「ネット世論のクセを知り、適切に付き合うこと」を勧めるとともに、第28代アメリカ大統領トーマス・ウィルソン(1856 - 1924)のアドバイザーとして世論形成の仕事に携わったウォルター・リップマンの言葉を紹介している。
自分の意見の根拠となった諸事実にどのようにして接近したかを自問することによって、ひじょうに啓発されることがしばしばある。自分が意見を持っている対象について、実際にそれを見たのは誰か、聞いたのは、感じたのは、数えたのは、名付けたのは誰か。自分にそれを告げた当人なのか、あるいはその人にその事を告げた人なのか、あるいはもっと遠い関係の人なのか。その人物はどの程度見ることができたのだろうか。(岩波書店『世論』、掛川トミ子訳)
この言説には、メディア情報リテラシーの原型があります。自分がいま抱いている考えについて、それがなぜ形成されたのかを自問すること、それが重要だと言っているのです。そして自分の意見の「出典」について、批判的に検証を行うことが有益であるとも述べられています。
古の賢者の言葉はネット時代のいまも生きている。
曰く、「汝自身を知れ」
一般世論にもネット世論にも下手に踊らされないため、お薦めしたい本である。
一般世論にもネット世論にも下手に踊らされないため、お薦めしたい本である。
ソックリデス
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損