2007年フランスで刊行
2008年河出書房新社より邦訳刊行(鳥取絹子・訳)

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 イスラエルのガザ地区侵攻とくに民間人迫害のニュースを見聞きするたび、不思議にもまた残念にも思うのは、「なぜアウシュヴィッツという地獄を経験したユダヤ人が、似たようなことを他人にできるのだろうか?」ということである。
 1948年建国以来、イスラエルは近隣諸国とたびたび戦争を繰り返してはきたが、今回のような武器を持たない民間人へのジェノサイド(大量虐殺)は聞いたことがない。
 イスラム組織ハマスによる残虐きわまりない襲撃に対する報復(=堪忍袋の緒が切れた)という面はあるにせよ、国際世論や国連を敵に回すことも辞さない暴力の行使を、アウシュヴィッツを体験したイスラエル市民は黙って見逃すことができるものだろうか?

 ――と思ったが、考えてみたら1945年のアウシュヴィッツ解放から今年で79年。
 当時は12歳以下の子供は強制収容所に連れてこられるや、そのままガス室に送られたから、現在生き残っている体験者のうちもっとも若い人でも、13+79=92歳という高齢である。
 生存者=証言者は年々減るばかり。
 この本の著者であるシュロモ・ヴェネツィア(1923年生まれ)もまた、自らのアウシュヴィッツ体験を赤裸々に語った本書を世に出した5年後、89歳で亡くなっている。
 原爆体験者が減るにしたがって日本の原子力政策が大っぴらに打ち出されてきたように、戦争体験者が減るにしたがって日本の右傾化が進み憲法改正議論が盛り上がってきたように、ナマの体験の証言者という歯止めが無くなることは、平和にとって大いなる脅威なのである。

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JoeによるPixabayからの画像

 シュロモ・ヴェネツィアはギリシャ生まれのイタリア系ユダヤ人。
 ギリシャで家族と暮らしていた21歳の時にアウシュヴィッツ=ビルケナウに強制収容される。一緒に連行された母親と2人の妹は到着後すぐに抹殺された。
 頑健なシュロモは特殊任務部隊に回され、そこで同胞の遺体処理の仕事を担わされる。
 本来なら収容所解放前に、ホロコーストを隠蔽したいナチスによって抹殺される運命だったが、奇跡的に生き延びる。
 戦後結婚し、家族と共にイタリアで暮らす。自ら体験したことについて長いこと口を閉ざしていたが、1992年から講演活動を開始した。
(本書プロフィール参照)

 特殊任務部隊とは、本書の原題でもある「ゾンダーコマンド」のことである。
 ゾンダーコマンドとは、収容所に連れて来られた同胞のユダヤ人を裸にして、シャワー室を装ったガス室に送り込み、毒殺された大量の遺体を運び出し、ガス室を清掃し、犠牲者の遺体を焼き、遺灰を川に捨てる仕事を強制的にさせられていた部隊。
 もちろん彼らが生き延びられるはずもなく、ほぼ3か月ごとに新しい部隊に入れ替わったという。
 考えられ得る限り、この世でもっともブラックな仕事の様子は、映画『サウルの息子』で描かれている。
 
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Jacek AbramowiczによるPixabayからの画像

 本書は、1980年生まれのフランスの政治学者&歴史学者であるベアトリス・プラスキが、シュロモに対してインタビューするという形式をとっている。
 なので、たいへん読みやすく、話し言葉ゆえの生々しさがある。
 シュロモが嘘のつけない率直な性格の男だけに、ありのままの地獄の体験が包み隠さず語られている。
 生い立ちから始まって、故郷の町がドイツ軍に占領され、だんだんとナチスによるユダヤ人迫害が進行していく様子。
 家族ともどもアテネに逃れ、レジスタンス運動にかかわるも、ドイツ軍に捕まってしまう経緯。
 アウシュヴィッツに向かう列車内の様子。
 収容所の生活とゾンダーコマンドとして見聞きしたすべて。
 ドイツの敗北と収容所解放時の様子。

 細かいエピソードを覚えているシュロモの記憶力に驚くが、逆に言えば、それだけ強烈な、忘れたくとも忘れることのできない体験だったということなのだろう。
 どこで何があったという事実の列挙だけでなく、その時々にどういう精神状態にいたか、何を思ったかという心理面までつまびらかに正直に語っているところが、このインタビューの価値を高めている。
 また、同じくアウシュヴィッツのゾンダーコマンドであったフランス画家ダヴィッド・オレー(1902-1985)のデッサンが挿入されており、一切の人間性を奪われた、あたかも朽ちかけた“丸太”のような犠牲者たちの姿からは、悪夢のような忌まわしさが滲み出ている。
 ホモサピエンスという種が同じ仲間に対して、どこまでのことをなし得るかという例証として、その生物学的価値はNHK『ダーウィンが来た!』に取り上げるに値しよう。

 本書を読むと、地獄とは“この世”のことであると思わざるを得ない。
 こことは別のところ、大地の底のほうにあるのではない。
 ここが地獄なのだ。
 同時に、天国もまた“この世”にある。
 ここには、天国から地獄までのさまざまな次元の世界が、時空という領域をキャンバスにして、つまり、さまざまな時代のさまざまな場所に、折り重なるように描き出されている。
 同じ時代であっても、場所によって異なる次元が存在し、天国と地獄が併存している。
 その様相はインターネットの普及によってますます露わになり、誰もが知るようになってきた。
 たとえば、1945年の日本人はアウシュヴィッツで何が起きているか知ることができなかったが、2024年の日本人はガザ地区やロシア・ウクライナで何が起きているか知っている。
 モニターの中に地獄を見ながら、次の休暇の予定を考えながら、天国でお菓子を食べている。
 現代人は、まさに映画『関心領域』で描き出されたような分裂状況を生きている。

47番八坂寺
四国遍路47番札所・八坂寺境内
「極楽の途」と「地獄の途」

極楽絵図47番八坂寺


地獄絵図蛇47番八坂寺



 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損