収録作品
酸模――秋彦の幼き思い出(1938)
家族合せ(1948)
日食(1950)
手長姫(1951)
携帯用(1951)
S・O・S(1954)
魔法瓶(1962)
切符(1963)
英霊の声(1966)
三島由紀夫13歳から41歳までの軌跡を味わえる短編集。
これはとても良い企画。
選ばれている作品も、ファンタジー風あり、私小説風あり、犯罪譚あり、現代風俗あり、怪談あり、檄文調あり、とバラエティに富んでいて、三島の圧倒的な文才に唸らされつつ、楽しく読むことができた。
修辞の卓抜さ、表現の精度、語彙の豊穣、日本語に対する感覚の鋭敏さ。
これだけの文章が作れる作家は、100年に1人と現れまい。
とくに印象に残った作品について、発表時の三島の年齢とともに記す。
『酸模』(13歳)
酸模(すかんぽう)とはスイバのことである。
タデ科スイバ属の多年草で道端などに生え、丈は60~100cm。初夏から夏にかけて赤褐色の花穂をつける。
春の山菜で天ぷらにすると美味しいイタドリ(虎杖)のことをスカンポという地域があるが、虎杖の花は夏から秋に咲き、花の色は白いので、この作品の酸模とは違う。
スイバ
松岡明芳 - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
虎杖(いたどり)
KENPEI - KENPEI's photo, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
KENPEI - KENPEI's photo, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
13歳でこれほどの小説が書ける早熟さには驚くばかり。
泉鏡花『朱日記』を思わせる郷愁をあおる美しいファンタジーである。
『朱日記』は美しい少年と山から下りてきた不思議な美女との邂逅を描いた作品で、一方『酸模』は6歳の秋彦少年と丘の上の刑務所から脱獄した男との出会いを描いたものである。
『朱日記』から、泉鏡花の花柳界の女性および幼くして亡くした母親への尽きせぬ思慕の念を読み取ることができるように、『酸模』からは思春期の三島=平岡公威少年のすでに芽生えている同性愛志向をうかがうことができる。
それも、『仮面の告白』でも吐露されたとおり、囚人や汚穢屋(糞尿汲取人)や鳶職人といった下層階級に属する、インテリとはほど遠い男衆に対する愛である。
昭和の昔、同性愛者向けのエロ雑誌がいくつか発売されていた。
老舗どころの伊藤文学編集長『薔薇族』が有名だが、ほかにも読者の性的指向に合わせて、『さぶ』、『アドン』、『サムソン』、東郷健編集長『The Gay』、遅れて『バディ』などの棲み分けがあった。
後年、角刈りに褌、色黒、マッチョのスタイルを好んだ三島の性的指向は、「漢・野郎・SM・硬派」のハードコア路線で、読み物の中に下町の職人や飯場の土方や軍人が多く登場する『さぶ』だったのではないかと思う。
『さぶ』は愛読者にインテリが多いことで知られ、紙面は圧倒的に活字が多かった。
『家族合せ』(23歳)
三島の自伝的小説で出世作となった『仮面の告白』の素材が散らばっている点で興味深い。
女中に囲まれた幼年時代、自慰の習慣に対する罪悪感、柔弱な体に対する劣等感、周囲の少年たちとの齟齬、初恋相手となった年上の青年近江を連想させる堀口、女郎屋での初体験と失敗の屈辱。
この短編の発表後、大蔵省を退職し、『仮面の告白』執筆に専念した。
『手長姫』(26歳)
お姫様(おひいさま)と呼ばれた高貴な出でありながら、少女の頃から手癖が悪く、万引き常習犯となった女性の半生を描いた異色作。
ソルティが高齢者介護施設に勤めていたときに出会ったS子さんを思い出した。
良い家柄の出で裕福な専業主婦であったS子さんは、白く細い腕で車いすを器用に操って、我々スタッフの目を盗んでは他の入居者の部屋に入り込み、物色した物を自分の部屋に持ち帰っていた。
彼女が好んで集めるのは、カナリアの羽のような美しい色合いの仕立ての良い洋服であった。
施設の相談員は、S子さんと同じフロアの入居者の家族に、「お持ち込みになる洋服には必ず名前を書いてください」と頼むことになった。
じかにS子さんに言っても無駄なのは、認知症だったからだ。
『切符』(38歳)
非常によくできた怪談。こんなものを書いていたとは知らなかった。矢本悠馬あたりを主演でショートドラマにしたら面白いと思う。名作!
『英霊の声』(41歳)
ずっと「えいりょう」の声だと思っていた。
「えいれい」である。
英霊① 死者、特に戦死者の霊を敬っていう語。② (英華秀霊の気の集まっている人の意)才能のある人。英才。(小学館『大辞泉』)
2・26事件で処刑された青年将校らと太平洋戦争で死んだ特攻隊員らの“霊言”という①の意味で使われているのだが、②の語義によって三島由紀夫の“肉声”という意味とも取ることができる。
つまり、これを書いた時の三島由紀夫と青年将校と特攻隊員とは三位一体、後者二つの霊団が三島に憑依したかのような気迫が文面に漲っている。
構成といい、表現といい、力強さといい、完成度といい、読後に残る強烈な印象といい、一編の短編小説として見たとき、これは三島の傑作のひとつと言っていい。
なんとなく気色悪くて、これまでまともに読むのを避けてきたのだが、これほど見事な作品とは思わなかった。
三島作品は英語をはじめ多くの外国語に翻訳され海外で読まれているけれど、この短編だけは翻訳不可能、というか外国語に変換したとたん作品の持つ魅力と価値が根こそぎ奪われてしまうと思う。
言霊(ことだま)が充満しているゆえに。
言霊(ことだま)が充満しているゆえに。
あたかも神社の祝詞のような作品である。
Kohji AsakawaによるPixabayからの画像
いろいろな読み方を可能ならしめる奥の深い作品という点でも秀逸である。
まず、オカルト小説と読める。
審神者(さにわ)と霊媒が出てきて降霊を行うという禍々しい設定が、ポーやホーソンやコナン・ドイルや『エクソシスト』といった西洋ゴシックの系譜を思い起こさせる。
と同時に、おどろおどろしい中にも日本的な物悲しい湿気をまとった小泉八雲や泉鏡花の怪談に通じるものがある。
寒気がするような結末の不気味さは言わんかたなし。
寒気がするような結末の不気味さは言わんかたなし。
軍人が心情を吐露する、広い意味での戦争小説でもある。
むろん反戦小説ではない。
2・26事件、特攻隊の当事者として結果的に無益な死を遂げさせられた者の怒り、恨み、慚愧の念が渦巻いている。
『平家物語』のような敗残者の呪詛に満ちている。
政治小説でもある。
天皇を現人神(あらひとがみ)に祀り上げ、皇国史観、尊王論、神風神話、武士道精神、玉砕上等を旨とする祭政一致の国体顕揚である。
少なくとも晩年の三島由紀夫が、そうした思想の持主にして吹聴者であったことは確かである。
その意味で、一種のプロパガンダ小説とみなすことも可能だ。
ただ、プロパガンダ小説にありがちの生硬さはここには見られない。
それは一水会の鈴木邦男(2023年没)が『右翼は言論の敵か』に書いているように、
もともと右翼は左翼との論争を嫌う。左翼は論理で迫るが、右翼は、天皇論、日本文化論などは日本人として当然の考え、常識と思っているし、それ以上に信仰的な確信をもっている。だから、左翼とははじめから相容れない。論争など無用と思っている。「言挙げ」を嫌うのだ。憂いや憤怒は和歌をつくって表現すればよい。
左翼が理屈、理性、論理を振りかざすのに対し、右翼の言動は信仰に裏打ちされている。だから、言挙げ(プロパガンダ)を嫌う。
大切なのは、プロパガンダではなくて、神託である。神の言葉である。
それを無条件に信じ、それに従って“生き死に”し、自らの行動によって神への信仰の篤さを示すことが大切である。
なので、この“右翼的プロパガンダ”は、檄文の形をとる。
言霊となる。詩となる。
言霊となる。詩となる。
本作の美しさは、これが一編の詩であるからだ。
作中で、霊媒の若者の口を借りて青年将校や特攻隊員らが歌う「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」を畳句とする詩だけでなく、この短編小説は全体でひとつの詩なのである。
理屈や理性や論理の介入する余地はそこにない。
この美しさに共感できるか否か、この“耽美”を味わえるか否か、である。
この作品の完成度の高さ、神レベルの表現力、全編に漲る気迫、行間に込められた作者の魂魄には恐れ入るけれど、ここに吐露された2・26事件の青年将校らや太平洋戦争の特攻隊員ら、ひいては三島由紀夫自身の思いは、ソルティの目には歪んだものとしか映らなかった。
「などてすめろぎは人間となりたまひし」の言葉に象徴されるように、英霊たちの恨みの焦点は天皇の人間宣言にある。
日本の敗れたるはよし農地の改革せられたるはよし社会主義的改革も行はるるがよしわが祖国は敗れたれば敗れたる負目を悉く肩に荷ふはよしわが国民はよく負荷に耐へ試練をくぐりてなほ力あり。屈辱を嘗めしはよし、抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし
すなわち、敗北もGHQ占領も農地改革も財閥解体も日米安保条約も東京裁判も問題ではない。それこそ日本が共産主義国家となってもかまうところではない。
されど、ただ一つ、ただ一つ、いかなる強制、いかなる弾圧、いかなる死の脅迫ありとても、陛下は人間なりと仰せられるべからざりし。
昭和天皇が神たることをやめて人間になったことだけは許せない、というのである。
なんとなれば、
陛下がただ人間と仰せられしとき神のために死したる霊は名を剝奪せられ祭らるべき社もなく今もなほうつろなる胸より血潮を流し神界にありながら安らひはあらず
天皇を神と信じればこそ捧げるに価値あった、自らの命が、人生が、いさおしが、男が、無駄になってしまったからである。
いわば、“推し”アイドルの結婚によって裏切られた熱狂的ファンの心理である。
勝手に祭り上げられ、神格化され、妄想の対象とされた昭和天皇こそ“いい迷惑”ではなかろうか?
昭和天皇ご自身が「われは神なり。崇拝せよ。」と言ったわけではあるまいに。
英霊たちが恨むべきは、そのような天皇の神格化を図って国民を洗脳した大日本帝国であり、元老たちであり、政治家であり、軍部であり、マスメディアであり、学校の教員たちであり、祖父母であり、父母であり、隣近所の大人たちであり、それを見抜けなかった自身のアタマであろうに。
いま、旧統一教会のマザームーンこと韓鶴子が突然改心し、「自分は全人類の真(まこと)の母ではない。総裁は下りる。教団は解散する」と宣言したとして、それにショックを受けた信者がマザームーンを恨んで暴動を起こしたとしたら、世間に向かって、「マザームーンは真の母の座を降りるべきでなかった」と訴え出たとしたら、彼らに理があると思うだろうか? 彼らに共感するだろうか?
たいていの人は「自業自得」と思うのではないだろうか。
「いい機会だから、目覚めなさい」と諭すのではないだろうか。
彼ら信者がマザームーンと教団のために費やしてきた時間やお金やエネルギーなどがあたら無駄になってしまったことについては、いささかの同情を寄せないものでもない。
けれど、彼らが奪われた人生の補償を求めてマザームーンと教団を訴えるというのならともかく、「マザームーンは止めるべきでなかった」と憤るのは、到底受け入れ難いトンチンカンと思う。
しかも、マザームーンや“推し”アイドルは、ある程度まで最初から自らを神格化すべき企図して、意識的にそのように振る舞っているわけだが、昭和天皇自身が国民に信者たることを強いたわけではあるまい。
昭和天皇もまた、“国のため、国民のため”、元老や閣僚や御前会議が決めたように振る舞うほかなかったろう。
つまり、英霊たちが昭和天皇を恨むのは「お門違い」と思うのだ。
ソルティは、1970年11月25日市ヶ谷自衛隊駐屯地における三島由紀夫の映像や写真を見たり、自決までの経緯を記した記事を読んだりするたびに、いたたまれないような、目をそむけたくなるような居心地の悪さ、しいて言えば気色の悪さを感じてきた。
本作を読んでそれがどうしてなのか、明確になった。
英霊たちや三島由紀夫は、昭和天皇を、言わば、“ズリネタ”にしていたのだ。
頭の中で勝手にこしらえた妄想という名の耽美小説の偶像(まさにアイドル)に据えていたのだ。
2・26事件の青年将校らと太平洋戦争の特攻隊員らはまだしも、ホモソーシャルな愛の対象として、つまり天皇との精神的な紐帯を求めていたにすぎない。
しかるに三島由紀夫の場合は、明らかにホモセクシュアルな愛(エロス)が潜んでいる。
三島由紀夫の割腹自殺とは、「神への信仰のために犠牲となり、裸体を射抜かれた」聖セバスチャンの殉教の再現である。
そのシチュエーションこそ、かつてグイド・レーニ作『聖セバスチャンの殉教』でマスターベーションを覚えた『仮面』の少年の至高のセクシャルファンタジー、すなわちズリネタであった。
そのシチュエーションこそ、かつてグイド・レーニ作『聖セバスチャンの殉教』でマスターベーションを覚えた『仮面』の少年の至高のセクシャルファンタジー、すなわちズリネタであった。
『仮面』の少年が三島由紀夫その人であることは、後年になって、カメラマン細江英公による『薔薇刑』において三島自身が聖セバスチャンに扮しているところからも明らかである。
三島由紀夫の公開オナニー。
――それが三島事件の核心なのではないか。
ソルティが感じる気色悪さの因はそこにある。
グイド・レーニ作『聖セバスチャンの殉教』
『英霊の声』は、霊媒となった青年が怨霊に命を奪われるところで終わる。
死んでいたことだけが、私どもをおどろかせたのではない。その死顔が、川崎君の顔ではない、何者とも知れぬと云おうか、何者かのあいまいな顔に変容しているのを見て、慄然としたのである。
このラストが昔読んだ何かの小説を連想させたのであるが、それが何だったのかどうにも出てこない。
死と同時に美青年から醜い老人に成り変わったドリアン・グレイか?
人々が仮面を剥いだら、その下には何もなかった『赤死病の仮面』か?
どうも違う。
手がかりを求めてウィキ『英霊の声』を読んだら、次のようなエピソードがあった。
瀬戸内寂聴は、最後の〈何者かのあいまいな顔に変貌〉した川崎青年の死顔の、その変容した顔が天皇の顔だといち早く気づき、「三島さんが命を賭けた」と思い手紙を送ったと述べている。すると三島から、〈ラストの数行に、鍵が隠されてあるのですが、御炯眼に見破られたやうです。以下略。〉
「あいまいな顔」とは人間宣言した天皇だというのだ。
どうもソルティはこの解釈にはすっきりしない。
百歩譲って、瀬戸内寂聴の見抜いた通り、三島が、「もはや神でなくなった天皇という存在の虚偽や空虚を比喩的に表現した」と認めるにしても、読者にはその奥に隠されている真相を想像し、自由に解釈する権利がある。
文庫の解説では、保阪正康が次のように書いている。
この最後の一節が語っていたのは何か。三島の中に「合一」した時の、自らの姿が予兆されていたという意味に解釈できるだろう。
すなわち、この死んだ川崎青年は、この作品の書かれた4年後に自決した三島を予兆するものだったというのである。
ソルティの感じたのも保阪説に近い。
読後数日たったある晩、そろそろ眠ろうと布団に横になった瞬間、パッと脳裏に浮かんだ言葉があった。
芥川龍之介『ひょっとこ』
主人公の平吉は、いつも嘘ばかりついていて、酔っぱらうと、ひょっとこのお面をつけて馬鹿踊りする癖があった。
あるとき、隅田川の船の上で群衆に野次られながらいつもの馬鹿踊りをしていた平吉は、脳溢血で倒れて、そのまま息を引き取ってしまう。
駆けつけた人々がお面をとると、そこにはいつもの平吉の顔とはまったく似ても似つかぬ見知らぬ男の顔があった。
「あいまいな顔」の死者とは、まさに『ひょっとこ』の主人公平吉のことではないか!
嘘をつくのが習い性となったがゆえに、真実の顔が人から見分けられなくなった平吉。
それと同じように、霊媒となって様々な霊たちに憑かれ、その代弁者となることを職としてきたがゆえ、おのれの顔を失った川崎青年。
偽りの「仮面」をかぶり続けざるを得なかった人間の悲劇がそこには暗示されている。
我々はこの珠玉の短編集を通して、いくつもの厚い仮面の下に埋もれた13歳の三島由紀夫と、そして6歳の秋彦少年と出会うことができる。
一面のすかんぽ畑の中で。おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損