2018年ハンガリー・フランス
142分
ゾンダーコマンドをテーマにした傑作『サウルの息子』を撮ったラースロー監督の第2作である。
ヴェネチア国際映画祭の国際批評家連盟賞を獲っているが、昔からいわくありげで難解なものを有難がるスノッブな性質がヨーロッパ映画界にはあるので、素人観客を下に見たい批評家連中があえて選んだだけのことだろう。
小津や黒澤や木下といった、わかりやすくて面白い庶民映画の巨匠を抱える日本人は、これを有難がる必要などまったくない。
「がっかりした」と一刀のもとに切り捨てていい。
壮大なる失敗作である。地方の町からブタペストにやってきたイリスは、かつて両親が経営していた高級帽子店に職を求める。
が、イリスの正体を知った店主ブリルに煙たがれ、逆に町から離れるようせかされる。不審に思ったイリスが調べると、ブリルには殺人者の兄カルマンがいたことが判明する。事件の真相を探るべく失踪した兄の行方を追うイリスの周りで、不可解な出来事が次々と起こり続け、高級帽子店の隠された顔が明らかになってくる。やがて、カルマン一味による貴族を狙った暴動がおこり、ブタペストを覆う混乱はそのまま第一次大戦になだれこんでいく。
なにも知らない一人の美女が突如として事件に巻き込まれ、危険もかえりみず謎の解明をはかっていく。いわゆる、巻き込まれ型のミステリーサスペンスである。
その点で、途中までワクワクするし、先の展開が気になりもするし、20世紀初頭のヨーロッパの風俗を見るのは面白くもある。
高級帽子店の裏に隠された忌まわしい秘密は、フランク・ヴェデキントの小説『ミネハハ』、およびそれを原作とした2本の映画『エコール』、『ミネハハ 秘密の森の少女たち』の類いだろうと推測ついたので、さほど驚きはなかった。
第一次大戦前の猥雑なヨーロッパの都市の空気を匂わせる“らしい”エピソードと言える。(80年代バブルの頃に流行った都市伝説、『パリのブティックの試着室』を思い出した)
第一次大戦前の猥雑なヨーロッパの都市の空気を匂わせる“らしい”エピソードと言える。(80年代バブルの頃に流行った都市伝説、『パリのブティックの試着室』を思い出した)
驚くべき直感と無鉄砲なまでの行動力で謎にぐいぐい迫るイリスに観る者がついていけなくなるのは、途中からイリスの行動が常軌を逸しているように思え、その表情が狂人めいて見え、彼女がいったい何をやりたいのか分からなくなってくるからである。
それにつられるように、カメラワークが不明瞭で不安定なものになっていく。
わざとピントをはずして画面をぼやかし、手持ちカメラで撮っているのが丸わかりのブレを生じさせる。
映画を観る者からすれば、うっとうしくて仕方ない。
映画を観る者からすれば、うっとうしくて仕方ない。
このあたりの撮影方法は『サウルの息子』でも特徴的に用いられており、ソルティはそれを主人公サウルの狂気の表現ととった。
となると、イリスもまた、事件の闇に触れて一線を超えてしまったのだろうか?
主人公が精神の境界を超えたことを裏書きするかのように、後半のシーンは時間も空間も設定が曖昧になり、ご都合主義な展開が続く。(あんな男装で周囲をだませるわけがない!)
あたかもすべての物語が、最初からイリスの妄想であったかのようにさえ思えてくる。
結果として、事件の解明や兄カルマンの正体はなにがなんだかよくわからないまま打っちゃられてしまい、すべてが陽光の下くっきりと露わにされるカタルシスを期待して本作を観てきた者は、肩透かしを喰らうことになる。
延々140分以上も付き合ってきたのに、これか!
デビュー作『サウルの息子』の成功と法外な評価の高さで、ラースロー監督は気負ってしまったんじゃないかと思う。
批評家や映画関係者の評価を気にしすぎて、いわくありげで高尚な映画を作ろうと気張りすぎて、観客を軽視したんじゃなかろうか。
この作品以降、映画を撮っていないところをみると、スランプに入っているのかもしれない。
ラースロー監督に対する処方箋は、「小津、黒澤、木下の作品を観ること」である。
間違っても、ゴダールやタルコフスキーやベルイマンではない。
おすすめ度 :★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損