2024年日本(動画工房ぞうしま制作)
101分
ヒューマントラストシネマ有楽町で鑑賞。
銀座で新作映画を観るなんて、10年ぶりである。
平日10時からにも関わらず満席だった。
なぜこのテーマに人が集まるのだろう?
テレビニュースで特集でもあったのか?
不思議な気がした。
というのも、これは若くして統合失調症を発症した姉の生涯を、実の弟が描いたドキュメンタリーだからである。
藤野知明監督は1966年北海道生まれ。現在50代後半。
両親ともに医師で研究者というエリート家庭に生まれ育った。
8つ違いの姉・雅子は幼いころから成績優秀で、将来は親と同じ医師か研究者の道に進むものと期待され、本人も国家試験目指して勉強していた。
それが20代半ばのある日、統合失調症を発症する。
奇声を上げ、とりとめないことを呟き、暴力をふるい、家を飛び出し行方知れずになっては保護される。
だが、両親は娘の病気を認めず、治療をいっさい受けさせず、家に閉じ込めた。
いたたまれなくなった知明は、家を飛び出して、離れた土地で生活を始め、やがて映像関係の仕事に就く。
姉の発症から18年後、知明は意を決し、カメラ片手に帰宅し、家族の姿を撮り始める。
2001年のことである。
カメラは、2001年から2021年まで約20年間の雅子の姿、家族の状況を断続的に映し出す。
それとともに、子供の頃の雅子の写真やエピソード、発症前後の状況、知明が家を離れていた間に起こった奇行の数々が明かされる。
雅子当人が考えていることや感じていることは、まともな会話が成り立たないので、観る者はその表情や行動から推測するほかない。
たしかに統合失調症のひとつの症例がそこにはある。
一方、まともな会話が成り立たないのは雅子だけではないことに、観る者はやがて気づかされる。
“正常”な人間で、きわめて高い知能と華々しい経歴をもつ父親と母親もまた、コミュニケーションがどこか変だ。
姉の病気をなんとか改善したい知明は、帰宅するたびに姉の状況を確認し、姉との会話を試み、親に精神科に連れていくことを勧める。
しかし、プライドが高く、頑固で、常に自分の正しさを確信している両親は、まったく耳を貸さない。
医師の父親は、知明が探してきた精神科医の論文を読み、小馬鹿にさえする。
玄関のドアを何重にも鍵をかけて閉じ込めておかねばならない現状にあってなお、“壊れた”娘の現実を認めることができず、賢かった過去の娘の面影を追っている。
それはまるで宇宙人との会話のよう。
地球人知明の孤軍奮闘ぶりに同情しつつ、観る者はやがて気づく。
「これは統合失調症患者の話ではない。家族の病の話なのだ」
想起するのは、精神障碍者の移送サービスをやっている押川剛が書いた『「子供を殺してください」という親たち』、『子供の死を祈る親たち』(ともに新潮文庫)である。
たとえば、私のところへ相談に来る親に、よくありがちな例を挙げてみましょう。親は、問題行動を繰り返す子供について、「人の言うことをまったく聞かないのです」「嘘ばかりつくのです」「倫理・道徳観がないのです」などと訴えます。ところが、その親自身が、私のような第三者に対して、「人の言うことをまったく聞かず」「嘘ばかりつき」「倫理・道徳観がない」振る舞いをしています。具体的に言うと、相談やヒアリングの席で自分たちに都合のいい話だけをして、事実を述べない。子供の目線に立って親の過ちを指摘すると、言い訳に躍起となり本質の話をさせない。こちら側の指示に対して、自分の考えを優先し聞き入れない。子供の違法行為や倫理・道徳に反する行為を、自分たちの生活に影響を与えるからという理由で隠蔽したり黙認したりする。お金や自分の都合など目先のことにとらわれ、他人を振り回す。(『「子供を殺してください」と言う親たち』より)
2001年に撮り始めた時、これがどういった作品になるか、どういう展開ののちにどういう結末を迎えるのか、ラストショットはどうなるのか、いや、そもそもちゃんとした作品に仕上がるのか、藤野監督は見当もつかなかったことだろう。
20年後の家族の姿など、誰だって想像のつきようもない。
歳月の残酷さ――この作品の一番ショッキングなところである。
20年たてば、家族それぞれが20歳分、年を取る。
30代だった知明も、いまや還暦手前。
明晰な頭脳を誇った母親は認知症になって幻覚に振り回され、世界を旅した父親は脳梗塞で車いす生活となり、姉の雅子はさらなる病に襲われる。
発症から25年、パワーの衰えた両親は、やっと雅子を精神科に入院させることに同意する。
その結果、これまでの状態が嘘のように、雅子の症状は劇的に改善する。
すっかり目つきの変わった雅子。
料理を楽しみ、散歩を楽しみ、趣味のイベントでの買い物を楽しみ、花火を楽しむ“少女のような”中年女性が現れる。
もっと早く治療につながっていたら、この女性には別の人生が、別の可能性が開けていたかもしれなかった。
だが、もう遅い・・・・・。
雅子の人生は、まるで、弟知明にこのフィルムを作らせ、家族という病の厄介さを世に知らしめるためにあったかのようだ。
だが、それはなんの慰めにもならない言葉だ。
「どうすればよかったか?」と監督は問う。
「こうすべきだった」と外野が言うのは簡単であるが、無責任だし、酷でもある。
知明を責める資格は誰にもないし、責められるべき事由もない。
かと言って、「こうなるよりほかなかった」と諦観するのは、あまりにむごい。
悲しすぎる。
おすすめ度 :★★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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