2024年角川選書

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 戦争宗教学って言葉、初めて聞いた。
 著者は1974年生まれの宗教学者。キリスト教の家庭に生まれ育ち、幼い頃から戦争映画や戦闘機の模型や銃の玩具に夢中になったという。
 自然、宗教と戦争の結びつきに関心を抱くことになったわけである。
 本書は、戦争・軍事と宗教の関係をさまざまな角度から考察したものである。
 はじめて知ったことが結構あり、面白く読んだ。
 著者は「はじめに」でこう記している。

 本書は、いわゆる宗教戦争の歴史をまんべんなく網羅するものではない。また、一定の方法論から宗教と戦争の関係を体系的に分析するものでもない。ここで目指しているのは、宗教的な軍事や軍事的な宗教を観察しながら、私たち人間の、理想と本音、限界と矛盾、正気と狂気、愛とエゴイズムなど、良くも悪くも人間的としか言いようのない部分を直視して、それが私たちの現実なのだと受け入れることである。

 第1章「軍事のなかの宗教的なもの」では、武器や武具にみられる宗教的要素について紹介している。
 たとえば、アメリカ製の自動小銃の照準器に聖書の一節を示す略号(JN8:12=ヨハネによる福音書8章の12節)が刻まれていたとか、日本の戦国時代の武将の兜の立物に「南無妙法蓮華経」の文字が象られていたとか、戦艦大和には奈良県天理の大和(おおやまと)神社から分祠された神棚が祀られていたとか、大日本帝国の軍旗が「天皇の分身」として奉戴されていたとか、洋の東西問わず、そうした例は枚挙のいとまない。
 また、戦場におもむく兵士たちが、おみくじやお守りや占星術や験かつぎの小物など宗教的・呪術的な力を頼りにした例が挙げられている。日本の場合、千人針や五銭硬貨(四銭=死線を超える)や十銭硬貨(九銭=苦戦を免れる)がよく知られている。
 面白いところでは、第1次大戦中の西洋では、赤ん坊が生まれた時に胎盤とともに出てくる卵膜が海難除けのお守りとして海軍の兵士たちにもてはやされたという。

千人針
千人針
 第2章「戦場で活動する宗教家たち」では、西洋の従軍チャプレン、日本の室町・戦国時代に活躍した陣僧、大日本帝国軍で戦地に派遣された従軍僧について取り上げられている。
 第2次大戦中、グリーンランドの米軍基地に向かっていたアメリカ陸軍の輸送船が、ドイツの潜水艦による魚雷を受けて沈没した。このとき、自らの命を犠牲にして乗組員を最後まで励まし助けた4人のチャプレンは、いまでも「永遠のチャプレン」として聖人のごとく語り継がれており、切手のデザインにもなっているという。
 一遍上人を宗祖とする時宗の僧侶が多かったという陣僧のことや、戦地で葬儀・布教・慰問をおこなった従軍僧のことなど、その実態をほとんど知らなかったので興味深く読んだ。

 第3章「軍人に求められる精神」、続く第4章「宗教的服従を説いた軍隊」では、しばしば軍事のなかで重視される「精神」や「士気」に着目し、極端な精神主義に傾いた大日本帝国軍の実態とその背景にあったものを推察している。 
 ここが本書の白眉と言える。

 宗教には社会や集団の団結を強化する機能がある、というのは古くから指摘されていることだが、実際問題として、士気を高め、結束を強めるために、軍隊において広義の「宗教」はなくてはならないものだったのだ。宗教を真剣に、切実に必要としていたのは、実は聖職者よりも軍人だったと言っても過言ではないかもしれない。文字通り、生き残るために必要だったのである。

 宗教は戦争に大いに“役立つ”。国家レベルで然り、個人レベルで然り。
 それは、洋の東西や時代の違いを問わない人類の普遍的現象である。
 だが、戦前の日本においては、とくに国家レベルで宗教(神道)が戦争のために活用され、精神主義的傾向が顕著であった。
 たとえば、日の丸特攻隊無駄な行軍による犬死に、退却を嫌いあくまで前進・攻撃にこだわる無謀な戦略、「生きて捕虜となる辱めを受けず」、一億玉砕、「〽みごと散りましょ、国のため」・・・・。
 そこには、科学的合理的なものが何もなかった。
 そもそも、猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』で暴かれたたように、敗けると分かっていた日米戦を始めた段階で、合理性はどこかにうっちゃられた。
 あたかも日本人は、元寇の際に生まれた神風神話を信じ、江戸時代の武士道を貫いて、アメリカに向かっていったようである。
 その理由を著者は次のようにまとめている。

 日本軍の精神主義的傾向の背後にあったのは、すでに見てきた通り、「天皇の軍隊」という位置付け、風紀・軍紀を維持せねばならないという課題、そして日露戦争の経験など、さまざまなものがあった。だが1920年代半ばから30年代にかけて、軍人は自分たちの軍隊を理想通りに改造することができない現実を突きつけられたため、なおさら精神論的な文句をならべて気勢を張るようになってしまったのである。

 すなわち、
  1. 大日本帝国軍がそもそも天皇の軍隊いわゆる皇軍(神の軍隊)として組織された。
  2. 長い鎖国の江戸時代からやって来た民衆によって近代的な軍隊をつくるには、道徳的教育から始めなければならなかった。
  3. 主要会戦が一日で決した日清戦争に対し、長期化し戦死者数も跳ね上がった日露戦争においては、戦場の指揮や部隊の統制が困難になる傾向が見られた。兵士ひとりひとりの戦闘意志、士気や攻撃精神を高めなければならなかった。
  4. 大正デモクラシーの時代、社会に反戦ムードが広がり、軍人は疎まれ、軍事予算が縮小された。ときは第一次大戦直後で、軍の近代化を推し進めることが必須であったのにもかかわらず、それが叶わなかった。結果として、近代兵器以外の要素=精神力に依存せざるを得なくなった。
 1~3の理由は納得するのに困難はないが、4のような理由が存在し得るとは思わなかった。
 これは言ってみれば、国民の求める平和主義が、必要な軍備強化を妨害したため、軍事力の弱点を精神力でカバーせざるを得なかった、ということである。
 「武器がなくとも気合で勝て!」みたいな・・・。
 この4の理由が妥当なのかどうかソルティには即答できない。
 が、ここから著者が示唆しようとしているのは、過去の日本のことでなく、現代の日本のことであろう。
 左翼の平和主義や反戦思想が、憲法改正や自衛隊の日本軍への格上げや軍備増強や徴兵制や核の保有を妨害するから、日本は心許ない日米安保に頼らざるをえず、かえって国として弱体化し平和が危険にさらされている、と暗に言いたいのだろう。
 次のように述べている。

 戦争が終わると、人々はもうかつてのように「必勝への信念」は叫ばなくなった。しかし、その代わりに今度は「平和への信念」を叫ぶようになった。そして、かつての拠り所であった「大和魂」の代わりに、今度は別の魂として「憲法九条」があらわれた。つまり「戦争」に対する姿勢がそのまま「平和」に対する姿勢にスライドしただけで、結局は信念や信条や心意気のようなものでどうにかしようとする傾向はそのまま受け継がれてしまっているように見えるのである。・・・(中略)・・・軍国主義から平和主義に「回心」したつもりだけれども、単に服を着替えただけで、中身の人間は実はまだ同じような目つきをしているのではなかろうか。

 先の大戦において「大和魂」で日本を守れなかったように、「憲法九条」では日本を守れない。だから科学的合理的に世界状況を分析し戦略を練って軍備増強をはかれ、ということである。
 物心つく頃より戦争映画や武器が好きだった著者らしい言明だなあと思う。

 隣人への愛を説き、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出しなさい」と言ったキリストの教えと、隣人を憎み大量に殺戮する行為である戦争は、原理的には相容れない。
 だから、キリスト教家庭に育った著者の心中に「信仰と平和のジレンマ」が生じているのだろうと推察される。
 なんとかしてその矛盾を受け入れ、ジレンマを解消したいという思いが、本書の行間から滲み出ている。

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 最後に、ソルティが一番驚いた文章を挙げる。
 
 宗教は「平和」を祈り求めるものだが、戦争・軍事も最終的には「平和」を目指している。少なくとも関係者はそのように自覚している。

 えっ! そうなの!?
 それが世間一般の常識なの?
 軍事関係者、宗教関係者、政治家、学者たちの自覚なの?

 ソルティは生まれてこの方、そんなこと一度たりとも思ったことがない。
 ソルティにとって戦争とは、単に欲望の追求であり、男のマウンティング合戦である。
 平和が目的だなんて1ミリも考えたことはない。
 ソルティにとって宗教とは、ひとりひとりの信者においては「心の安心(あんじん)」の杖であり、組織の長においては権力の源泉であり、国家においては人民をコントロールする道具でしかない。
 「平和が目的」と言えるのは、せいぜい個人の心のレベルにおいてのみと思っている。

 戦争も宗教も、ソルティの中では人類の発明した「愚行」としか思っていないので、両者間にはなんの齟齬も対立も生じず、ジレンマもない。(ソルティ自身はテーラワーダ仏教の徒ではあるが、実のところそれを一般的な意味での宗教とも信仰とも思っていない)

 ソルティは戦争と宗教について誤った見方をしているのだろうか?
 あまりに人間不信が過ぎ、ひねくれているのだろうか?
 平和主義者の看板を下ろさなければならないのか?

原爆ドーム



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損