2024年中央公論新社
初出
1958.11 『群像』
1964.09 『群像』
1965.07 『世界』
1966.02 『文芸』
1990.12 『朝日新聞』

IMG_20250209_152254

 今年は三島由紀夫生誕100周年(没後55周年)。
 いろいろな関連イベントや出版企画が打たれることだろう。
 本書はその先駆と言っていい。

 昭和を代表する3人の小説家のおこなった5回の対談を収録したものである。
 もっとも、3者揃ったのは最初の1958年『群像』誌上だけで、あとの4回は、三島v.s.大江、安部v.s.大江、三島v.s.安部の組み合わせである。(最後の1990年の対談は当然、安部v.s.大江である)

 ソルティが20代の頃によく読んだのは、まさにこの3人の新潮文庫版だった。
 本書の表紙に3人の名前が並んでいるのを見て、なんだか青春懐古というか、昭和ノスタルジーというか、80年代によく通った池袋TOBUの旭屋書店の店頭にタイムスリップしたような気がした。
 3人の対談を読むのははじめてである。

 まず、3人の共通点として、東大卒であることが上げられる。
 3人とも非常に頭が切れる。回転が速い。
 読書量は言うに及ばず、知識量も記憶力も連想力も理解力も語彙力もすごい。
 『三島由紀夫 vs 東大全共闘50年目の真実』(豊島圭介監督)を観た時にも感じたが、東大生(卒)同士の会話は難しすぎて、ソルティのような凡人にはついていけないと思った。
 とりわけ、最初(1958年)の対談では、まだ東大に在学中で作家デビュー間もない23歳の大江が、一回り年上で時代の寵児となっていた三島と安部に伍して、まずまず対等に喋っているのだから、感心した。 
 まさに天才の出現、だったのだなあ。

 いま一つ共通点を上げると、3人とも国際的評価が非常に高い。
 三島は欧米で、安部はソ連をはじめとする(旧)社会主義国で、生前から評価が高く、よく読まれていた。
 3人ともノーベル文学賞候補に上げられていて、結局、93年の安部の死を待って、翌94年に大江が受賞した。
 90年代に吉本ばななと村上春樹がブレイクするまでは、この3人が海外でもっとも読まれていた日本人作家であった。
 日本人以外にも通じる普遍性があるってことだ。

 一方、小説のスタイルは三者三様。
 安部公房は『壁』、『砂の女』、『箱男』に代表されるように、SFチックで無国籍で寓意的。
 三島由紀夫は『潮騒』、『金閣寺』、『サド侯爵夫人』に見られるように、人工的で虚構性が強く論理的。
 大江健三郎は『飼育』、『万延元年のフットボール』、『洪水はわが魂に及び』にあるように、私的世界の混沌が神話的世界につながるフォークロア風。
 これだけ重なり合うところがないのも面白い。

 政治的立場の違いとなると、さらに画然としている。
 天皇制国粋主義者で自衛隊決起を促した三島と、戦後民主主義の信奉者で護憲論者の大江、そこに元共産党員(1950-1961)だった安部が絡む。
 晩年の三島の政治的な思想や言動を、安部と大江はまったく理解できなかったことであろうが、それでもこうして仲良く文学談義できるところが、不思議と言えば不思議。
 それはもしかしたら、三島亡き後の安部v.s.大江の対談(1990年)にある次のくだりが関係しているのかもしれない。

大江 :この秋にヨーロッパに行きましたが、日本に先だって三島由紀夫ブームでした。三島さんの芝居がやられている。あわせて安部さんの戯曲の話がよく出た。いま思うと、三島さんと安部さんは一番の対立項でしたね。

安部 :確かにそう。でも三島君って、変わり者だった。思想と人格が、完全に分離していた。思想は気に入らなかったけど、人格は好きだったな。

 自決の4年前の1966年の対談では、次のような箇所がある。

三島 :僕という人間が生きているのは、なんのためかというと、僕は伝承するために生きている。どうやって伝承したらいいかというと、僕は伝承すべき至上理念に向かって無意識に成長する。無意識に、しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達したときになにかをつかむ。そうして僕は死んじゃう。
・・・・(中略)
それにしても、僕はしかし、自分が非常に自由だという観念は、伝統から得るほかないのだよ。僕がどんなことをやってもだよ。どんなに西洋かぶれをして、どんなに破廉恥な行動をしてもだね、結局、おれが死ぬときはだね、最高理念をね、秘伝をだれかから授かって死ぬだろう。

安部
:きみ、死ぬときに授かるのか。

三島
:そう、死ぬときに授かる。(笑)

 やっぱり、なんだかんだ言って、主役は三島由紀夫になる。

三島由紀夫

 3人揃った最初の対談で、「もはや、戦前にあったような“文壇”は存在しない」という点で、3人は意見の一致を見ている。
 1958年(昭和32)の時点で、純文学作家たちはそういう感慨を持っていたのだ。
 しかるに、現在、本書を読むと、「ここにちゃんと文壇があるじゃないか」と思わざるをえない。
 つまり、自ら文学者を名乗り、小説技法や批評や政治やセックスや世界を語れる作家がいて、かれらの対談が設けられる場があって、それを掲載した『群像』、『世界』、『文芸』といった文学専門誌が町の本屋にならんでいて、毎月の発行を心待ちにしている読者が日本中にいた。
 
 三島由紀夫生誕100周年。
 文学は遠くなりにけり、とつくづく思った。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損