2月中旬、3日間のスクーリングに行ってきた。
科目は「文化財学演習Ⅰ」。
ソルティは前日夕方に京都入りし、四条河原町のカプセルホテル「ルーマプラザ」に泊まった。
ここは屋上の露天風呂から京都市全景が見渡せて、とても気持ちがいい。
翌朝は8時半に宿を出て、京阪電鉄と近鉄京都線を乗り継いで、9時半に奈良大学のある高の原駅に着いた。
駅前ロータリーには大学構内に直行する臨時バスが待機していた。

木津川市あたりの車窓風景
京都府内ではあるが、「奈良に来た~」という気分になった

高の原駅
京都と奈良の境にある

駅前は開発が進み、大型ショッピングモールもある

奈良大学正門
入学して早3ヶ月、はじめての登校である。
バスから降り、スクーリング仲間の波に乗って迷路のような校内を進むと、キャンパスの全景が目の前に開けた。
広々して、明るく、気持ちいい。
すでに春休みに入っているためか、通学の若い学生らは見かけなかった。
期待と緊張を胸に、指定された教室に入る。
受講生は30名くらいだった。

江戸時代の墓石であろうか
キャンパスの先住者?
3日間のスクーリングの内容は次の通り。
- 1日目 講義
美術史における3つの方法論・・・様式論、図像学、図像解釈学
卒業論文の形式および準備方法
図書館見学
自己紹介と各自の関心ある研究テーマ発表 - 2日目 学外授業
薬師寺見学
唐招提寺見学 - 3日目 演習(ポスター作成)
各自の研究テーマに関するポスターを作成し、一人ずつ発表
担当教師の関根俊一先生は、奈良国立博物館に勤め正倉院展を担当されるなどしたあと、大学に職を転じた。今は和歌山県立博物館の館長をされている仏教美術の専門家。
いきおい1日目の講義と2日目の学外授業は、仏像に関する学習が中心を占めた。
ソルティはちょうどテキストの『日本仏像史』を読み終えたばかり(レポートは未完)だったので、語られる内容がすんなり頭に入り、復習しつつ、大いなる関心を持って授業に臨むことができた。
配布された資料もレポート作成に役立つ内容で、タイミングの良さに感嘆した。
やはり仏のお導きだろうか。
仏像に関する話のほかにも、年々ブルジョア化する博物館の実態やオーバーツーリズムの抱える問題、図書館の活用法、卒論のテーマを選ぶ際のポイントなど、とても充実した内容であった。
同時期に、8つの科目のスクーリングがそれぞれの教室で開催されており、休憩時間の食堂やトイレは50~70代の中高年であふれた。

図書館

充実した蔵書
近ければ通えるのになあ~

図書館エントランスに置かれた金剛力士像
杉材の一木造で、高さ約3m
平安時代後期の作と伝えられる

食堂

書店
歴史、考古学、文化財関係の本や雑誌が充実
2日目の学外授業こそ、スクーリングの醍醐味である。
屈指の名刹である薬師寺と唐招提寺を、博物館館長をつとめる仏教美術専門家に案内してもらい、見どころを懇切丁寧にレクチャーしてもらうなんて、そうそうあることではない。
仏像についてはもちろんのこと、古代史、宗教史、寺史、民俗、建築、アジア史、文化財の保存方法、考古学など、分野を横断する幅広い知識と長年の研究から生まれた含蓄あるレクチャーは、一言も聞き漏らすまいと思わせる濃度であった。
大学も今やサービス業とは言え、将来ある若者相手ではなく、先の見えている(苦笑)中高年相手に、ここまで熱心に丁寧に教えてくれるのかと感激した。
薬師寺で驚かされたのは、我が奈良大学の起源は、1925年(大正14年)に薮内敬治郎が薬師寺境内に設立した南都正強中学であるという事実。
なんとビックリ!
先生が指し示す方向を見やると、今にも崩れそうな古風な白漆喰の木造建築があり、今にもずり落ちそうな瓦屋根の破風のてっぺんの鬼瓦に「學」という文字が刻んであった。
100年前の校舎が今もある!
100周年記念の年に入学したとはなんと目出度い。
こんな由緒ある大学とは知らなんだ。
薬師寺では、通常は見学できない僧房に入れていただき、平成21年からの大修理で役目を果たし終えた1300年前の東塔の水煙を、間近に見ることができた。
水煙を含む全長10m、重さ10トンの銅製の相輪を、高さ約34mの東塔のてっぺんに上げて組み立てた古代の人々の建築技術、鋳造技術の高さには、まったく恐れ入る。

薬師寺
約40年ぶりに訪れた

金堂

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲
(佐々木信綱)

東塔(三重塔)
創建当時から唯一残る建物
天辺の相輪のみ平成の大修理で造り替えられた

西塔
享禄元年(1528)に焼失、昭和56年(1984)に再建
創建当時の東塔もこんな風な色彩だったのだろう

創建時の東塔の水煙
もとは金メッキされていた
“凍れる音楽”に乗って舞う天女が造形されている
“凍れる音楽”に乗って舞う天女が造形されている
薬師寺と言えば、名物和尚の高田好胤師(こういん、1924ー1998)を思い出す。
ソルティも中学校の修学旅行の際に話を聴き、噂通りの「面白いお坊さん」と思った。
その伝統を受け継いでいるのか、境内のまほろば会館での昼食休憩時に話をしてくれたお坊さま(大谷徹奘氏)も面白かった。
この方は、東日本大震災の際に現地を歩き、被災者の心のケアに取り組んだ人である。
「国難がある時、金堂の薬師如来さまは汗をかかれる」という。
その薬師如来坐像およびは両脇の日光・月光菩薩立像であるが、仏像史ではいまだに解決していない問題を提起している。
像のつくられた時代が、藤原京に都のあった飛鳥時代なのか、平城京に遷都したあとの奈良時代(天平期)なのかという問題である。
薬師寺も遷都に合わせて藤原京から平城京(現在地)に移設したので、そのときに本尊である薬師三尊像も移したと考えるのが自然なのであるが、この像の洗練された写実性や鋳造技術の高さが飛鳥様式より天平様式に近いと思われているためだ。
あたかも九州説v.s.畿内説の邪馬台国論争のように、飛鳥v.s.天平論争が続いている。
なるほど、おへそを丸出しに腰をひねった日光・月光菩薩像など、サリーをまとったインドの女神像のような、あるいはボリウッド映画で歌い踊る主演女優のような、はたまた『どうにもとまらない』の頃の山本リンダのような、エロティックな雰囲気があり、飛鳥時代の仏像の清新な端正さと一線を画しているように思われる。

Renu DadlaniによるPixabayからの画像
唐招提寺は鑑真和上の創建した寺として知られる。
鑑真は754年に来日し、東大寺に戒壇を設けた。当時日本には正式な授戒の制度がなく、勝手に出家する私度僧が増え、社会の混乱を招いていたのである。
鑑真は日本の造像技法にも大きな影響を与えた。
これまで中心だった銅造や塑造(粘土)や乾漆造(麻+漆)に代わって、唐で流行っていた木造をもたらし、平安時代以降の木彫仏の全盛を導いたのである。
その際、インドや唐では白檀が用いられたが、日本ではカヤやヒノキが代用された。
この寺の金堂におられる仏像たち――廬舎那仏坐像(塑像)からの薬師如来立像と千手観音立像(木心乾漆像)からの梵天・帝釈天立像と四天王立像(木造)――は、まさに日本の木彫仏誕生の流れを表わしているのである。
なににも増して役立ったのが、このスクーリングのため新たにWORKMANで購入した遠赤外線超厚手スパッツ。
本当に素晴らしい機能で、丸一日、下半身の冷えを防いで、尿意の頻繁を抑えてくれた。
通信教育のスクーリングは、大学が休みに入る冬場(2~3月)と夏場(8~9月)に行われる。
さすがに、夏場の奈良盆地の学外授業は「灼熱地獄」と思うので、少なくとも学外授業のあるスクーリングは、しっかり防寒対策して冬場を選ぶのが、個人的には正解と思う。
3日目は教室でポスター作成と発表。
一人一枚ずつ模造紙が配布され、午前中は各自の関心ある研究テーマを自由に紙にまとめ、午後はそれぞれが発表した。
一日目の自己紹介で、関東からの参加者の多さを知ったが、中には北海道や長野や山口など遠くからの人もいた。
奈良好きが高じて、奈良にアパートを借りてしまったという人もいた。
研究テーマが実にバラエティに富んでいることに、また、それぞれがポスター作成のためにしっかりと資料を用意していることに感心した。このあたりは社会人だなあ~(もっとも事前に通知されてはいたが)。
胎内仏、日本庭園、英語辞書、仏像の台座、仏像に踏まれている邪鬼、根来焼、和太鼓、地域の遺跡、寺の建築様式、中山道の宿場、大和絵巻、世界の神話、飛鳥・奈良時代のガラス製品、秩父巡礼、漆文化、富士山の祭神、尺八の歴史、祟り、算額、玉川上水・・・・等々。
同じ文化財学専攻でも、これだけ題材の幅が広く、各自の興味あるテーマが異なる。
自分が知らない事物のこと、自分もまた以前から興味を持っていること、着眼点に感心したものなど、他の人の発表を聴くのは刺激的で、面白かった。
順調にいけば、来年度は卒論を書かなければならない年(4年生)である。
今年の10月までにはテーマを決めて計画書を提出しなければならないのだが、ソルティはまだ何をするか考えていない。
昨年10月に入学したばかりで、まだ1単位もとれていないので、卒論どころではない気分。
再来年度になるかなあ~。
ほかの参加者と休憩中に話したのであるが、非常に中身の濃い、おトク感のあるスクーリングで、これなら年間約20万円の学費も惜しくはないと、意見の一致を見た。
最終日に大和西大寺駅に寄った
令和4年7月8日、安倍晋三元総理が射殺された駅前ロータリー

花壇ができていた
いまなお、歴史は奈良で作られる?