1981年中央公論社
2020年新潮文庫

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 日本文学研究者&海外への紹介者として、錚々たる昭和の大作家たちと親交のあったドナルド・キーンは、2019年に97歳で亡くなった。ニューヨーク生まれのアメリカ人だったが、東日本大震災を機に日本国籍を取得した。
 一方、毎日新聞記者だった徳岡孝夫は、1930年生まれなので現在満95歳である。
 両者の共通の友人にして本書の主役である三島由紀夫は享年45歳。
 両者は三島の2倍以上を生きたことになる。
 100年に届くほどの長い生涯において、両者ともにもっとも忘れ難い人物が三島由紀夫だったのである。
 実際、日本の近現代には、国語教科書の常連である夏目漱石や芥川龍之介や太宰治、ノーベル文学賞をとった川端康成や大江健三郎など、偉大な作家はたくさんいるけれど、死してなおこれだけ語られる作家は三島を措いていない。
 人々に忘れられることなく話題にされ続けることが三島の狙いであったとしたら、その目論見は見事に成功したと言うべきだろう。

 本書は、三島由紀夫自決から丸一年経った1971年11月に、ドナルド・キーンと徳岡孝夫がはじめて二人で旅行した記録をもとに、徳岡が綴った紀行エッセイである。
 二人は、三島の遺作『豊饒の海』のラストシーンの舞台となった奈良の円照寺(作品中では月修寺)を皮切りに、倉敷、松江、津和野、京都と気の向くままに移動しながら、いろいろなことを語り合った。
 話題の中心が、二人の共通の友であり一周忌を間近に控えていた三島のことになるのは、当然の成り行きである。
 8歳年下の徳岡が、三島と15年間にわたる付き合いのあったキーンに問いを投げかけ、キーンはさまざまな三島のエピソードを引き合いに出しながら答え、それを徳岡が道中の見聞を折り混ぜながら、13篇にまとめている。(初発は1972年1月から『サンデー毎日』に連載)

 文学はもとより、能や歌舞伎や文楽や新派など日本文化全般についてのキーンの造詣の深さは驚くべきものである。
 三島の代表作である『近代能楽集』、『宴のあと』、『サド侯爵夫人』を英訳し海外に紹介した立役者だけあって、キーンの三島文学に対する理解および三島由紀夫という人物に対する洞察は、非常に深く、その言葉には含蓄がある。
 キーンはおそらく三島同様、ゲイだったと思う。
 キーンの三島に対する理解の深さは、生来の文学的感性の豊かさにも増して、同じセクシュアル・マイノリティとして、同じ時代――クローゼット(隠れゲイ)であることを強いられた時代――を生きてきたゆえのものであろう。
 キーンが本書の中で幾度も、「三島さんともっと腹を割って話せばよかった」と言っている真意は、そこらあたりにあるのではないかと思う。
 お互いに、お互いがゲイだと察していながら、カミングアウトし合わなかったのだろう。
 それができていれば、豊かな芸術的感性をシェアできる三島とキーンは無二の親友になれたかもしれないし、ひょっとしたら三島の自決は防げたのかもしれない。
 歴史に「もし」はないけれど・・・・。

 親しかった、しかしよそゆきだった――という表現は、生前の三島と交遊のあった人ほとんどの述懐だといってもいい。十五年間も、しかも翻訳を通じ、また共通の趣味を通じて彼と非常に親しかったキーンさんでさえ、個人的なことについては語り合ったことがなかった。

 晩年の三島に気に入られ、1970年11月25日の事件当日、三島から手紙と檄を託されるほど信頼されていた徳岡もまた、キーンほどではないにしても、文芸通であり、教養豊かな男である。
 文面からは誠実でまっすぐな人柄が伝わってくる。
 三島やキーンのような極めて繊細な感性をもつ人間が、気を使わなくて済むような、気のいい話しやすい相手だったのだろう。
 ただ、次のような“老い”に対する偏見はいただけない。
 95歳の現在、過去に自分の書いた文章を見てどう思うだろう?

三流ホテルのロビーの日だまりに、日がな一日すわっている老人たちの群れを見てぞっとした経験は、欧米へ旅行したたいていの日本人が持っている。それは、まさに「生ける屍」以外のなにものでもない。医学の発達と福祉政策の普及が、もうすぐ日本にもそのような光景を創出するに違いないと、頭の中では知っていながらも、伝統的に散りぎわの美しさ、いさぎよさに無意識にもせよ共感をおぼえている日本人の心は、老醜に目をそむけさせずにはおかないのだ。
 
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DanielによるPixabayからの画像

 以下、キーンによる三島由紀夫評を引用する。
 ソルティが三島について思うところとほぼ同じである。

 矛盾のない人間は、つまらない人間じゃないでしょうか。矛盾が多ければ多いほど、その人物は面白いと言うことができます。三島さんは、まさにそうだったのです。

 とにかく、あの人は、すごく意志の強い人でした。強い意志の力を借りて、自分の夢を計画的に一つ一つ実現していったのです。人によって、場合によっては、ごく自然に、夢がつぎつぎに成就することもあります。しかし、三島さんの場合は、不自然なこともありました。三島さん自身としては不自然には感じなかったのでしょうけれど。
 まあ、あの人の夢の中で、なにか一つ現実にならなかったものがあったとすれば、それはノーベル賞だったといえます。

 仮面――たとえば太宰治も、いつも仮面をつけて、自分が道化のような役割を果たしているのだと思っていました。しかし、太宰の場合は、仮面の下にほんとうの自分の顔があったのです。もし、だれかが自分の素顔を見たら、どんなに驚くだろう、とね。だが、三島さんの場合は、仮面の意味がこれとはまったく違います。・・・・・・(中略)
 太宰には、仮面をつけることがどんなに苦しいかという気持ちがありました。しかし、三島さんは、異なった顔になるように自分を訓練したのです。仮面を自分のからだの一部にし、最後には、それが仮面なのか自分のほんとうの顔なのかわからなくなってしまったのだ、と、ぼくは思うんです。

 あの人の政治観には、いろいろな矛盾がありました。あの人自身も、とりたてて矛盾を解決、整理しようとはしませんでした。ただ、天皇という個人と天皇制という制度の矛盾については、非常に深刻に考えていたものと思われます。結局は、「天皇」は「日本」にほかならないという結論に達したようです。

 なぜ、三島さんは、あれほど鴎外にあこがれたのか。それは、おそらく、鴎外の世界が、自分のそれとはまったく違うものだったからでしょう。鴎外にも鴎外の感受性があったことはいうまでもないんですが、それは三島さんの感受性とはまるっきり異質のものだったです。
 だが、三島さんは、絶えず自分とは異質のものにひかれていました。あの人は、自分に似たものを、かえって嫌っていたんです。

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SecouraによるPixabayからの画像




おすすめ度 :★★★★

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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損