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上演日 2025年1月25日
劇 場 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場
指 揮 ヤニック・ネゼ=セガン
演 出 マイケル・メイヤー
キャスト
  • アイーダ: エンジェル・ブルー(ソプラノ)
  • ラダメス: ピョートル・ベチャワ(テノール)
  • アムネリス: ユディット・クタージ(メゾソプラノ)
  • アモナズロ: クイン・ケルシー(バリトン)
  • ラムフィス: モリス・ロビンソン(バス)
  • エジプト王: ハロルド・ウィルソン(バス)
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 今年1月にニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演したばかりの新演出『アイーダ』の評判がSNSで流れてくるのを見て、居ても立ってもいられず、銀座東劇まで足を運んだ。
 ライブビューイングは、ライブ録画したものを日本に居ながらにして大スクリーンで体感できる。
 嬉しいことに、一般3700円のところ、学生料金2500円。
 入口でスタッフに不審な顔されたら、「やいやい、この学生証が目に入らぬか~」と、顔写真入りの奈良大の学生証を見せつけるべくポケットに忍ばせておいたが、とくに確認されることなく入れてしまった。
 ひょっとして学生に見える?(笑)

 今回は36年ぶりの新演出。
 上演機会の多い人気オペラなのに、意外と刷新されないものなんだなあ~。
 36年前と言えば1989年。つまり、ソルティがDVDを持っているジェイムズ・レヴァイン指揮の『アイーダ』(演出はソーニャ・フリーゼル)以来ということになる。

 今回の演出の一番の特徴は、幕開きからいきなり開示される。
 前奏曲が流れる間、舞台上方から垂れたロープを伝って、一人の男が舞台に降り立つ。
 それは、エジプトの古代遺跡を調査研究している考古学者。
 新たに発見された地下遺跡を調べるため、数千年間、前人未踏の地に入り込んだのである。
 彼は足元に短剣を見つける。宝石で象嵌された高価な剣。
 周囲の石壁に懐中電灯の光を向けると、古代エジプトの様々な神像や動物や文様が浮かび上がる。
 壁龕のひとつには剣を下げた英雄らしい男性像がある。
 すると、時は現在から過去へとうつり、石の回廊の奥から古代エジプト王国の勇者ラダメスが登場し、物語が始まる。

 この考古学的導入、2014年秋に来日したスロヴェニアのマリボール国立歌劇場の『アイーダ』の演出と同じである。
 ただ、マリボールの場合は、冒頭で考古学者が発見するのは抱き合った骸骨のカップル――地下牢で死んだラダメスとアイーダ――であった。オカルト的えぐみがあった(笑)
 METの場合、冒頭だけでなく、幕間や場面が変わる随所で考古学者らを含む発掘調査隊が登場し、現代と古代がシンクロする。
 たとえば、第2幕の冒頭では、遺跡に腰かけた女性隊員がおもむろに目の前の何かをスケッチし始める。
 そのデッサン過程が舞台上の大きなスクリーンにプロジェクション・マッピングによって映し出される。
 次第に形を成していく線描は、クレオパトラさながらの古代エジプトの高貴な女性の姿である。
 それが音楽の始まりとともに、面となって鮮やかな色彩を帯び、侍女に囲まれた王女アムネリスの居室の壁画となる。
 考古学は過去を立ち上がらせる。

 なんだか、先日受けたばかりの奈良大学スクーリング「文化財学講読」の続きのようだった。
 発掘されたさまざまな遺物について、それが作られた時代や材質や用途を科学的手法を用いて調査し、その遺物が使われた過去の時代の人々の暮らしや宗教や死生観を推測する。
 単に過去の事実を突き止めることで終わってはいけない。
 その時代を生きた人々の息づかいに耳を済ませ、肌のぬくもりを感じ、願いや恐れや喜怒哀楽に思い馳せ、かれらの“物語”を知ることが大切なのだ。
 過去の人々の“物語”を読み取ってこそ、考古学は生きた学問になる。
 それが欠けたら、ただの科学に過ぎない。
 過去を懸命に生きた人々の“物語”と、現代を生きる我々の“物語”とが通じ合った瞬間、強国エジプトと小国エチオピアの熾烈な戦いがロシアとウクライナの戦争に重なり、ラダメス×アムネリス×アイーダの三角関係が同じような恋の喜びや苦しみを味わっている現代人の心と響き合うのである。
 実際、『アイーダ』の原案を書いたのは、エジプト考古学者オギュスト・マリエット(1821-1881)であった。
 オギュストは、作曲者ヴェルディに考古学上のアドバイスを与え、初演の舞台装置、衣装製作を担当した。
 考古学と“物語”を結びつける今回の演出は、まさに『アイーダ』の原点回帰だったのである。

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Nadine DoerléによるPixabayからの画像

 いまひとつの驚きは、ラストシーン。
 なんとアムネリスが自害してしまう!
 蝶々夫人さながらに。
 ソルティもこれまでずいぶん、生の舞台やレーザーディスクやDVDで『アイーダ』を観てきたが、アムネリスの自害で終わる演出に触れたのは初めて。
 もちろん元々のリブレット(脚本)にはない、新解釈である。
 嫉妬に狂ったあまり、恋する男をみずから処刑台に追いやってしまったアムネリス。
 恋も希望もプライドも輝かしい将来も打ち砕かれ、自暴自棄になっての衝動的行為ということだろう。
 ここで、冒頭に出てきた短剣の意味が浮上する。
 考古学者が最初に見つけたのは、若さも美貌も地位も財産もなにもかも持っている王女が、たった一つの恋の破滅ゆえに自らを殺めた凶器だったのである。

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BruceによるPixabayからの画像

 歌手はさすがMET、文句のつけようがない。
 主要キャストみな素晴らしいが、とくに感心したのは、アムネリス役のユディット・クタージとアモナズロ役のクイン・ケルシーのエチオピア父娘のコンビ。リアリティ凄まじく、役者としての存在感が際立っていた。
 ラダメス役のピョートル・ベチャワは英雄らしい見栄えの良さ。第一幕冒頭の有名なアリア「清きアイーダ」の最後の高音Bフラットを、通常のテノールのようにフォルテで歌い上げず、ファルセットのピアニッシモで終えたのにはびっくり。
 だが、ヴェルディの書いた楽譜では、ピアニッシモ (pp) かつmorendo (遅くしながら消えいるように) と指示されているらしいので、これが本来のイメージに近いのだろう。この終わり方でこそ、勇者の力強さよりも、恋する者の哀切が伝わってくる。
 アイーダ役のエンジェル・ブルーは、はち切れんばかりの若さと可愛らしい目鼻立ちが魅力。これからが楽しみな期待のソプラノである。

 ソプラノと言えば、やっぱり、METの女王であったアンナ・ネトレプコの現在が気になる。
 ロシア出身のネトレプコは、ロシアのウクライナ侵攻に際して反ロシア・反プーチンの姿勢をはっきりと表明しなかったために、METを追い出されて、西欧の劇場では歌う場を失ってしまった。
 彼女の親族がプーチン政権下のロシアで暮らしていることを思えば、彼女が反ロシア・反プーチンの言説を表明することがそう簡単でないことは想像がつきそうなものである。
 芸術に政治を持ち込むことの是非は別にしても、思いやりに欠けた拙速な処置だったと思う。
 いまのトランプ=アメリカのプーチン寄りの振る舞いを見るにつけ、政治の馬鹿らしさがわかるではないか。
 METは毅然として、芸術への政治の介入を許さずに、ネトレプコほかロシアの音楽家を守るべきであった。
 でなければ、国同士の戦いに巻き込まれて愛も命も失った若者たちの悲劇を描く『アイーダ』を上演する資格など、METにはなかろう。

P.S. 第2幕のエジプト軍凱旋シーン。屈強な男性ダンサーズが肉体美を見せつけながら踊りまくる。小柳ルミ子がどこからか登場するのかと思ったあなたは、間違いなく昭和育ち。