2018年岩波新書
著者は、2004年から2007年まで第218世東大寺別当・華厳宗管長を務めた東大寺長老である。イスラム学者としても著名で、イスラム関連の著書や訳書でも高い評価を得ている。イスラムに詳しい仏教者というユニークな存在である。
本書は、タイトルそのままに奈良東大寺のなりたちを記したものである。
東大寺誕生の経緯から語り起して、創建者である聖武天皇(701-756)の生涯や政治姿勢や篤い仏教信仰、奈良時代最大イベントである盧遮那大仏開眼(752年)の模様、聖武天皇没後に起きた藤原仲麻呂の乱(764)や宇佐八幡神託事件(769)や藤原種継暗殺事件(785)といった権力闘争劇、そして桓武天皇による平安京遷都までが、様々な文献資料を引きながら綴られ、そうした激しい歴史の流動を東大寺がどのように乗り切ったかが語られる。
東大寺のなりたちを語るとは、聖武天皇の生涯を追うことであり、奈良時代の歴史をたどることであり、仏教国教化への道を俯瞰することであると実感した。
さすがに学者だけあって、事実をもとに論拠を明確にしながら推論を重ねる記述には説得力がある。
ただ、聖武天皇びいきになるのは、立場上、仕方ないのだろう。
盧遮那大仏や各地の国分寺・国分尼寺の造営が、鎮護国家のみならず民の幸せを一心に願う聖武天皇の慈悲深い御心から発した事業であることに嘘偽りはないと思うが、そのために駆り出されて何十日何百日も酷使され、あるいは、なけなしの財を供出させられる民の苦しみや不満についてはまったく触れておらず、こうした度重なる公共事業が食いぶちのない民を救う福祉政策の一環だったと解釈するに終わっているのは、疑問を持たざるを得なかった。
完成した大仏を、民は拝むことができなかったというではないか。
東大寺が誕生するまでの経緯を追った部分は、非常に興味深かった。
現在、創建当時の姿が残る唯一の仏堂は、大仏殿の東の丘にある法華堂(三月堂)であるが、どうやらこれはまた、東大寺で一番最初に建てられたお堂、すなわち東大寺の生まれるもとになったお堂らしいのだ。
724年即位の4年後、聖武天皇と光明皇后の間に待ちに待った王子が生まれた。
が、王子は一歳の誕生日を前に病死してしまう。
深い悲しみのなか、王子の菩提を弔い冥福を祈るために建てられたのが、のちに法華堂と呼ばれることになる羂索院なのである。733年創建と伝わる。
その名が示すように、いまの法華堂の本尊である不空羂索観音はそのときに造られた像なのである。
その後、羂索院を含む金鍾寺(こんしゅじ)が、寺域を接する福寿寺と合併され、742年に大和国の国分寺と定められて金光明寺と名を変えた。さらに大仏鋳造の始まった頃(747年)から東大寺と呼ばれるようになった。
いまある巨大な東大寺の発端は、幼い息子の死を悼み冥福を祈る父と母の思いだったのである。
であるから、聖武天皇と光明皇后がふだん暮らし政務を執っている平城京の大極殿から東大寺が見えること(東大寺建立前は羂索院=法華堂が見えること)に大きな意味があったのであり、本尊・不空羂索観音の胸の前で合わせた両手のひらの間に水晶の珠が光っていることに、参拝する者は思いを馳せるべきなのである。
掌中の珠
現在法華堂にある10体の仏像のうち、創建時からの像は、本尊・不空羂索観音と毎年12月16日に公開される執金剛神の2体のみで、ほかの8体(梵天、帝釈天、四天王、金剛力士の阿形・吽形)はあとから入って来たものらしい。
中央の本尊と、それを覆い隠すような周囲の3m大の進撃の巨人たちの不思議なバランスの秘密は、そこにあった。
では、本尊と執金剛神と共にもともとあった像は何かと言えば、現在東大寺ミュージアムにある日光・月光菩薩、戒壇堂にある四天王の計6体だったようだ。それなら不空羂索観音とバランス的にちょうどいいサイズである。
仏像は動くから面白い。
現在の法華堂内陣の仏像配置
(法華堂の案内パンフレットより)
カリスマ性のあった聖武天皇&光明皇后の亡き後、血で血を洗う政権争いが勃発する。
これまで偉大な両親のもと乳母日傘でぼんやりしていた安部内親王=孝謙天皇が、稀代の怪僧たる道鏡というパートナーを得て俄然覚醒し、政敵である藤原仲麻呂や淳仁天皇を追いやって称徳天皇として重祚するくだりは、非常にドラマチックである。
心なしか著者の筆も乗っているようで、次の個所など思わず吹き出してしまった。
(称徳)天皇は継承の選択肢として、天の加護を受けた出家者もありうるのではないかとその可能性を模索した。つまり道鏡法王にさらなる権威付けとして、「天」からの認定を期待するようになっていったのである。どこから漏れたのか、称徳天皇の心中を推し量って鋭く反応したのは宇佐八幡神宮であった。(丸カッコ内ソルティ補足)
いつの時代でも、いずこの国でも、権力に目がくらんだ連中のやることは似たり寄ったりだ。
ここでちょっと不思議に思うのは、大事な神託を告げたのが、なぜ宇佐八幡であって伊勢神宮ではないのかという点である。
お伊勢さんより八幡さんのほうが歴史が古い(=由緒がある)ということを、当時の人々が知っていたから?
それとも、日本は大事なことは昔から USA に従うという慣例ゆえ?
いずれにせよ、いまの宇佐八幡の宮司をめぐる騒動を読むと、とても国家的大事について神託を告げられる力があるとは思えない。
本書の終わりは、855年5月の地震で東大寺大仏の頭が落下してしまった件である。
開眼から100年も経てば、弱い部分から破損するのは仕方あるまい。
時の天皇は文徳であった。
新造するか修理するか、なかなか方針の定まらないところに、右京出身の忌部(斎部)文山なる者が提案した修理計画が採用された。それは轆轤の技術を駆使し、雲梯を巧みに組み合わせて落ちた仏頭を断頭に引き上げ、大仏の頸部に鎔鋳して、新造のようにするというものであった。
修理事業の総監督を任されたのは、空海の十大弟子の一人、真如。
彼こそは、薬子の乱に失敗し出家を余儀なくされた平城天皇の第3皇子、高岳親王その人である。このとき皇太子であった親王も廃嫡の憂き目にあい、仏門に入ることになったのである。
この大事業をつつがなく終えた後、真如は仏教の奥義を極めるため、インドへ向けて旅立った。
が、途中シンガポールあたりで虎に襲われて亡くなったという言い伝えが残っている。
一方、日本で初めてのクレーンを開発した忌部文山は、その功を認められ、従五位下すなわち貴族に列せられたそうである。
P.S. 本書は、奈良大学通信教育のスクーリングの際、担当教師が紹介してくれました。お礼申し上げます。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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