1954年東宝
95分、モノクロ
原作は川端康成。
戦後日本文学の最高傑作の一つという謳い文句であるが、ソルティは読んでいない。
お目当てはむろん、主演の原節子。
神保町シアターにて4/4まで開催の『没後10年 原節子をめぐる16人の映画監督』のうちのプログラムである。
舞台が鎌倉で、主要キャストが原節子に上原謙(夫役)に山村聰(義父役)で、テーマが戦後家族の崩壊とくれば、どうしたって小津安二郎監督の『東京物語』、『麦秋』、『東京暮色』あたりの松竹作品を重ねてしまう。
古い日本家屋の板張りの廊下を歩く原節子の後ろ姿を見れば、中折れ帽をかぶった会社帰りの笠智衆や、遠慮なく玄関から飛び込んでくる杉村春子や、あるいはプラレールに夢中のやんちゃ兄弟の登場を期待してしまう。
しかし、キャメラの位置は固定することなく、畳のへりから見上げるような、いわゆるローポジションではなく、オウム返しが延々と続くようなセリフ回し(A「そうかね」→B「そんなもんですよ」→A「そんなもんかね」→B「そうですよ」)ではないので、小津映画のリズムとはたしかに違うことに気づく。
原節子もどこか生々しく、“おんな”を捨象したところに築かれた小津映画の女性美とは異なる、あえて言えば“色気”が漂っている。原が演じる若妻・菊子はあまりに「こども」っぽくて、夫・修一を満たすことができない、だから修一は他に女をこさえている、という設定であるにもかかわらず。
菊子のフェロモンが発動されるのは、夫・修一に対してではなく、義理の父・信吾に対してなのである。信吾もまた菊子の魅力にほだされる。
さすがにそこは格調高き川端作品なので、年老いた義理の父と若い嫁が他の家族には内緒で関係をもつような不埒な展開はない。二人は互いに強く惹かれ合いながら、節度ある関係のまま別れを告げ、それぞれの道を行く。
が、たとえば小津『東京物語』の義父(笠智衆)と嫁(原節子)の、よこしまな想像をまったく許さぬ清潔な関係を思うとき、本作には禁断すれすれのエロスの香が立ち込めている。
小津と成瀬の大きな違いのひとつは、そこにあるのではないか?
良くも悪くも、小津映画は清潔なのである。
小津と成瀬の大きな違いのひとつは、そこにあるのではないか?
良くも悪くも、小津映画は清潔なのである。
これが『瘋癲老人日記』の谷崎潤一郎ともなれば、義父のあからさまな変態性欲は嫁にじらされることでさらに燃え上がり、暗黙の共犯関係の中でエロスはもはや、社会道徳や倫理や体裁をふみこえた奇態な花を咲かせる。
そう言えば、木村恵吾監督による1962年『瘋癲老人日記』映画化において、若く美しい嫁を演じる若尾文子相手に、老いたマゾヒストの義父を熱演していたのも山村聰であった。
両作品の山村聰の演技の違いを味わうのも一興である。
場内はおおむね50代以上の、青春期を昭和で過ごした男女で占められていた。
神保町シアターと同じ建物内によしもと漫才劇場があり、こちらは20~40代が多かった。
われら中高年組は、おそらくよしもと劇場を見ても、そこそこ笑って楽しめると思うが、逆パターンは無理だろう。
つまり、いまの20~40代が『山の音』を見たら、あまりに時代遅れのセリフや設定、その背後にある価値観――とくに男尊女卑や家族主義――に辟易するか、理解不能で退屈するか、絵空事のように感じて最後まで共感のツボを見出せないであろう。
むしろ、『瘋癲老人日記』のように“変態”軸において一点突破してしまえば、よしもと漫才以上の笑いを引き出すかもしれない。
ジェンダー領域の価値観にあっては、平安時代(『蜻蛉日記』や『源氏物語』)と昭和時代(『山の音』や『雪国』)のギャップより、あるいは太平洋戦争前と戦後のギャップより、昭和時代と平成令和時代のギャップのほうがよっぽど大きいってことが、徐々に明らかになりつつあるように思う昨今。
一方、原節子の美貌は時代を超えて輝いている。
一方、原節子の美貌は時代を超えて輝いている。
おすすめ度 :★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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