1954年大映
83分、白黒
脚本 成澤昌茂、依田義賢
音楽 黛敏郎
撮影 宮川一夫
本年度のNHK大河ドラマ『べらぼう』は江戸時代の吉原が舞台となっている。
吉原は幕府公認の遊郭で、最盛期には300軒近い女郎屋が立ち並び、数千人の女たちが性を売っていた。
もっともドラマの主役は女郎ではなく、吉原で生まれ育ち、歌麿や写楽を世に送り出した江戸のメディア王ツタジューこと蔦屋重三郎(1750‐1797)である。
民放ですら迂闊に手を出せない題材を、天下のNHKが、しかも家族揃って茶の間で観ることの多い大河ドラマで扱うとは!
「遊郭って何? 花魁って何?」と無邪気に訊ねる子供に、一緒にテレビの前にいる親御さんがどう答えるのか気になるところだけど、小中学生はともかく、今の高校の日本史の教科書には「江戸時代の遊女」を取り上げているものもあるという。
吉原で亡くなった女たちを墓穴に投げ込むように始末したことから「投げ込み寺」の異名をとった浄閑寺のこと、死亡時の平均年齢が21歳であったこと、全国の宿場にも飯盛女と呼ばれた娼婦がいたこと、ほかにも非公認の女郎たちがいたことなどが書かれているそうな。
貧しい女性たちが性を売らなければ生きていけない現代につながる社会の現実。
立場の弱い女性たちを搾取し、悲惨な境遇に追いやる男社会の構造。
男たちの覇権争いと為政者の事績だけを学ぶこれまでの歴史の授業は、偏ったものであるのは間違いない。
さらに、性とジェンダーと言えば、『べらぼう』にはエレキテルと土用の鰻で有名な平賀源内も登場する。
源内は男色家であり、生涯妻帯しなかった。
ドラマでは源内の男色指向もしっかり描かれている。
歌舞伎役者の2代目瀬川菊之丞を愛したこととか、街行くイケメンにちょっかいを出すところとか、吉原より湯島を好むところとか。(湯島には男色専門の遊郭である陰間茶屋があった)
歌舞伎役者の2代目瀬川菊之丞を愛したこととか、街行くイケメンにちょっかいを出すところとか、吉原より湯島を好むところとか。(湯島には男色専門の遊郭である陰間茶屋があった)
江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチとも称される讃岐生まれのこの天才を、「変態キャラ」で知られる安田顕が実に魅力的に演じている。
そろそろ殺人事件を起こして牢屋に入れられる頃合いと思うが、どんな最期を見せてくれるか楽しみである。
NHKの果敢なチャレンジを素直に称賛したい。
民放よりよっぽど攻めている。
『べらぼう』人気にあやかろうというのか、現在、神保町シアターでは『花街、色街、おんなの街』と題し、芸妓や遊女らをテーマにした映画を特集している。(5月2日まで)
五社英雄監督の『陽暉楼』、『吉原炎上』、吉永小百合の『夢千代日記』、永井荷風原作『墨東綺譚』、加藤泰監督『骨までしゃぶる』、日活ロマンポルノから『赤線最後の日』、『四畳半襖の裏張り』、『赤線飛田遊廓』・・・など、総計16作のラインナップは、日本にかつてあった遊廓文化の深さや彩りの証言である。
と同時に、華やかさと悲惨さ、エロスと暴力、まことと偽りとが小判の裏表をなす遊郭という舞台が、映画という表現形式にとても合っていたことを示してあまりない。そこで生まれる男と女の、あるいは女と女のドラマの濃さは言うに及ばず。
遊廓や赤線を好んでテーマにしたのが溝口健二監督である。
『噂の女』は、京都・島原遊廓の老舗置屋が舞台である。
女手一つで子供を育てたしっかり者の置屋の女将(演・田中絹代)と、失恋して東京から帰って来た娘(演・久我美子)。
それぞれが抱える葛藤と、理解し合えない母と娘の関係が、花街に生きる女たちの悲哀を背景に描き出されている。
それぞれが抱える葛藤と、理解し合えない母と娘の関係が、花街に生きる女たちの悲哀を背景に描き出されている。
本物志向の溝口が作り上げる遊廓の風景は、セットとは思えないリアルさ。
水谷浩による美術、宮川一夫による撮影、溝口による演出、そして田中絹代をはじめとする役者陣の演技のクオリティの高さによって、虚構が本物に成り変わる。
すぐにセットであることやCGであることが分かってしまう、昨今の映画やTVドラマの薄っぺらな映像は、単に金がかけられないためだけなのだろうか?
デジタル上映で画面も美しい。
一番の見どころは、田中絹代の演技である。
遊廓のやり手女将としての貫禄や艶やかさを醸し出す一方、年下の医師(演・大谷友右衛門)との恋に揺れ動く女の弱さといじらしさを漂わせ、さらには同じ男を娘と取り合うことになるや、嫉妬と怒りと老いの羞恥を見事に表現する。
この難しい役を実に自然に、品位を落とすことなく演じ切り、観る者を感情移入させる田中の芸の高さこそ稀有なものである。
母(田中)と娘(久我)、そして母から娘に乗り換えようとする若い医師(大谷)の三人が、並んで狂言を見るシーンがある。
演目は分からないが、老女の恋をテーマにした狂言で、舞台には老いらくの恋をあざけられる醜い老婆が登場する。
それを若い二人の後ろで鑑賞する母。
それを若い二人の後ろで鑑賞する母。
溝口らしい残酷な(サディスティックな)演出には怖気をふるう。
この残酷さゆえに、ソルティは溝口健二とルキノ・ヴィスコンティの相似を思うのである。