2018年の秋に四国88札所歩き遍路をしたとき、ゴール間近い86番志度寺に隣接する自性院境内に、平賀源内の墓があった。
香川県さぬき市志度は平賀源内の生まれ故郷なので、なにも驚くことはないのだが、それ以前にソルティは、東京都台東区橋場にある源内の墓をたずねていたので、「どっちが本当の墓なんだろう?」と思った。
その場でスマホを取り出して調べたところ、遺体が葬られたのは橋場のほうで、志度にあるのは妹婿の平賀権太夫が建てた参り墓との由であった。どのサイトを見たかは覚えていない。
「そうだよなあ。江戸はあまりに遠すぎる。人を殺めた罪人とて、家族や親類縁者にとっては大切な血族。参拝できるお墓が地元にほしいよな」
源内は安永8年(1779)11月、酒に酔った上でのいざこざから2人の男に斬りかかり、うち1人を死に至らしめた。すぐ江戸伝馬町の牢屋敷に入れられたが、判決が出ないまま、12月18日に病死した。享年51歳。
当時橋場にあった曹洞宗総泉寺に源内の菩提を弔ったのは、親友の杉田玄白である。『解体新書』で有名な人だ。
その後、総泉寺は1923年(大正12年)の関東大震災で罹災したため板橋に移転した。源内の墓はそのまま橋場に残された。

台東区橋場にある源内の墓
四国遍路を無事結願し東京に戻ってから、何かの折に、日本にはかつて両墓制があったのを知った。
民俗学の父と言われる柳田国男が昭和の初め頃に学術誌で取り上げてから、その分野では広く知られ、研究・議論されるようになっていたのだ。
両墓制とは、遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制習俗の一つである。遺体を埋葬する墓地と詣るための墓地を一つずつ作る葬制で、一故人に対し二つの墓を作ることから両墓制と呼ばれる。遺体の埋葬墓地のことを埋め墓(葬地)、墓参のための墓地を詣り墓(まいりはか、祭地)と言う。基本的に一般民衆の墓を対象にし、その成立、展開は近世期以降である。両墓制は土葬を基本とし、遺体処理の方法がほとんど火葬に切り替わった現在では、すでに行われなくなった習俗と言ってよい。(ウィキペディア『両墓制』より抜粋)
なぜこのような風習が起こったか、はっきりと分かっていない。
死に対するケガレ意識が強かった時代、村の居住地から離れたところに遺体を埋めて、それとは別に、ふだんお参りしやすいところに供養のための墓を立てたという説が有力である。
たしかに、土葬が普通だった時代、遺体を埋めた墓所から腐臭が漂ってきたり、野犬に掘りこされ食い散らかされたり、蛆虫や鳥から病原菌が人に広がったりする危険はあったろう。
火葬が一般化するにつれて消えていったことは、まさに心理面でも衛生面でも死穢に対する忌避感が大きかったことを示しているのではないかと思う。
平賀源内の場合ももしや両墓制?
橋場にあるのが埋め墓で、志度にあるのが詣り墓?
――そう思って調べてみたところ、両墓制の風習があった地域は限られていて、近畿地方に圧倒的に多く、関東、中部、中国、四国にはピンポイントに存在した。
香川県では、東側の瀬戸内海沿岸の村や島々に集中し、高松より西側には見られない。
志度は西側の海辺に位置するので、両墓制はなかったと言っていいだろう。
しかも、幕府が遺体の引き渡しを許さなかったので、志度にある墓にも、橋場にある墓にも、源内の遺骨は埋まっていないという説もある。
両墓どころか、両空?
(源内を贔屓していた老中の田沼意次が、密かに牢から逃がし、地方にかくまったという説もある)

南千住回向院(えこういん)
橋場の近くには、江戸時代の名だたる処刑場である小塚原刑場があった。
江戸時代の初期の頃は、処刑された遺体はそのまま野ざらしにされ、夏になると臭気が充満し、野犬やイタチが食い散らかして地獄のような有様だったと言う。
寛文7年(1667)に本所回向院の住職である弟誉義観(ていよぎかん)が、刑場の隣りに常行堂を建て、死者の埋葬と供養を行った。これが後の南千住回向院である。
杉田玄白はここで死体の腑分け(解剖)を行い、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の記述の正確性に驚いたのであった。
順当に考えれば、平賀源内の遺骨は回向院に埋められた可能性が高いのではなかろうか?
ともあれ、平賀源内が2つの墓をもつのは、生まれ故郷の志度でも、亡くなった江戸の地でも、多くの人から愛され、その死を惜しまれたからであるのは間違いない。