shinkyo269

日時: 2025年4月19日(土)18時~
会場: サントリーホール 大ホール
曲目:
  • 芥川 也寸志: オルガンとオーケストラのための「響」
     オルガン: 石丸 由佳
  • シチェドリン: ピアノ協奏曲第2番
     ピアノ: 松田 華音
  • 〈アンコール〉シチェドリン:バッソ・オスティナート(『2つのポリフォニックな小品』より)
  • ショスタコーヴィチ: 交響曲第4番
指揮: 坂入 健司郎

 今年は芥川也寸志生誕100年だという。
 ということは、三島由紀夫と同年生まれだ。
 父親の芥川龍之介は也寸志が生まれた2年後に自害しているから、龍之介と三島は面識がなかったのである。
 芥川也寸志の音楽を自分はほとんど知らないと思っていたのだが、実は映画音楽を結構つくっている。
 『地獄門』(1953年)、『戦艦大和』(1953年)、『猫と庄造と二人のをんな』(1956年)、『拝啓天皇陛下様』(1963年)、『八甲田山』(1977年)、『八つ墓村』(1977年)、『鬼畜』(1978年)。
 観たことあるものばかり。
 『砂の器』では音楽監督をつとめているが、あの印象的な主題曲をつくったのは、弟子の菅野光亮である。

 芥川也寸志は1954年にソ連に密入国し、半年間滞在した。
 その際に、ショスタコーヴィチに会って自作を見てもらっている。
 その縁もあって、1986年にショスタコーヴィチ交響曲第4番の日本初演を指揮した。
 そのときのオケが新交響楽団だったので、タコ4はこの楽団にとって名誉あるプログラムなのである。

 ロディオン・シチェドリン(1932-)はソ連生まれの現存する作曲家で、日本にも何度か来ている。
 入口でもらったプログラムによると、1988年にホリプロ(!)からの依頼で青山劇場のミュージカル『12月のニーナ 森は生きている』の作曲をするために、2ケ月間、真夏の伊豆の旅館に滞在したという。
 きっと浴衣うちわで曲作りに励んだのだろう。 
 奥さんは世界的に有名なバレリーナであるマイヤ・プリセツカヤである。
 当然、母国の大先輩であるショスタコーヴィチとは深いかかわりがあり、音楽的な影響も受けている。
 今回の曲目選定は、ショスタコつながりというわけだ。

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サントリーホール

 この渋くて難解なラインアップにもかかわらず、サントリーホール(約2000席)を9割がた埋める新交響楽団の人気はすごい。
 創立70周年近い歴史により積み重ねられた安定した実力と知名度、固定ファンの多さによるのだろう。
 これといった瑕疵も見当たらず、安心して聴いていられる。
 ホールの音響効果とあいまった迫力ある重厚な響き、空間を切り裂くような鋭い打楽器、共演のパイプオルガン(石丸由佳)とピアノ(松田華音)も見事なテクニックを披露し、日本アマオケ界のレベルの高さをつくづく感じた。

 しかし、残念なことに、前半は眠くて仕方なかった。
 実を言えば、半分寝てしまった。
 これは主として聴く側(ソルティ)に原因がある。
 まず、「メロディ・リズム・ハーモニー」が疎外された現代音楽が苦手である。
 美しさを感じることができず、心は宙にさまよう。
 次に、週末のアマオケ演奏会は午後2時開演が多いが、今回は午後6時開演だった。
 日中、都内の図書館で奈良大学のレポート提出のため、5時間ぶっ続けで勉強して、頭が疲れていた。
 さらに、桜が散った頃からヒノキ花粉症の兆候が現れた。
 ここ数日、のどの違和感と鼻づまり、倦怠感が続いている。
 音楽を聴くには、良い状態とは到底言えなかったのである。
 (3曲中せめて1曲は馴染みやすい曲を入れてほしかった)

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JoggieによるPixabayからの画像

 ショスタコーヴィチは活動年代的には現代音楽の人なのだが、作った曲はマーラーなど後期ロマン派の香りが強い。
 これは、スターリニズムによる芸術家への抑圧――社会主義リアリズムの勝利を表現する内容と形式の強要――ゆえに強いられた、反動的創作姿勢の結果なのかもしれない。
 そのおかげでショスタコーヴィチの作品が、現在も、ベートーヴェンやブラームスやマーラーと並んで演奏・録音される機会が多いのだとしたら、皮肉と言うほかない。
 もし、全体主義独裁国家で作曲するという抑圧が無かったら、ショスタコもまた、大衆にしてみれば「よくわからない、つまらない」現代音楽を量産していたのかもしれない。
 案の定、コンサート後半は覚醒した。
 
 第4番を聴くのははじめて。
 第3楽章までしかないのは未完成のためなのかと思ったが、全曲60分もあり、最後はチェレスタのもの悲しい響きで余韻を残しながら終わるので、これが完成形なのだろう。
 全体に面白い曲である。
 マーラーへのオマージュといった感じ。
 第2楽章は、マーラー交響曲第4番第2楽章の諧謔的な皮相「死神は演奏する」のパロディのように思われたし、第3楽章は、ビゼーの『カルメン』序曲っぽいフレーズも飛び出すものの、全般、さまざまな音楽の“ごった煮”のようなマーラーの絢爛たる世界を忠実になぞっているように感じられた。
 『マーラー交響曲』と名付けてもいい。

 ただ、マーラーの音楽が、どちらかと言えば、作曲家個人の精神遍歴の表現、つまり近代的自我の苦悩と喜びの表出とすれば、ショスタコの音楽は、自身が生きている環境の狂気と不条理の表現に聴こえる。
 20世紀初頭にマーラーが個人的に体験した“狂気と崩壊”が、「わたしの時代が来る」の予言通りに、ショスタコの生きたソ連において国家的に現実化してしまった――そんな因縁を想像させる。
 一方、スターリンの亡くなったあと(1953年)から作曲家としての活動を開始したシチェドリンの音楽からは、体制による抑圧や矯正の匂いが感じられない。
 “普通に”現代音楽である。
 比較的自由な時代の芸術家なのだ。

 いまのロシアはどうだろう?
 ウクライナ侵攻に反対した芸術家に禁固7年の実刑が下ったというニュースを見たが、スターリン時代に舞い戻ってしまったのではなかろうか。
 ロシアだけでなく、ミャンマーでも、イスラエルでも、中国でも、アメリカでも、全体主義の恐怖が募っている。
 ショスタコーヴィチこそが「現代音楽」だと思うゆえんである。

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