2023年日本
126分

市子

 同棲中の恋人からプロポーズを受け、幸せ絶頂だったはずの若い女性が、翌日置き手紙も残さず、行方知れずになった。
 その女性の名は川辺市子。
 残された恋人長谷川義則は、市子から生まれも育ちも家族のことも聞いていなかった。
 警察に失踪届を出し調べてもらったところ、驚愕の事実を知る。
 川辺市子という人間は存在していない、と。
 長谷川は市子の行方を探す旅に出る。
 
 本作を観て想起したのは、2022年毎日新聞出版刊行の『ある行旅死亡人の物語』(武田惇志、伊藤亜衣共著)であった。
 アパートで孤独死した女性が、住民票がないために身元がわからず、行旅死亡人として扱われた。二人の新聞記者が彼女(田中千津子さん)の正体をつきとめるまでの過程を描いたノンフィクション・ミステリーである。
 千津子さんの身元は最後には判明し、読者はホッとするのであるが、故郷を離れてから千津子さんに何があったのかは結局わからないままであった。なぜ彼女が身元を隠そうとしたのかも・・・。

 市子の場合は、それとちょっと異なる。
 物語では、市子の行方を探す義則(若葉竜也)の姿と並行して、市子の過去が少しずつ描かれていく。
 貧しい母子家庭の育ち、男関係にだらしない母親、母の愛人からの性虐待、病気で寝たきりの妹・・・。不幸な生い立ちである。
 だが、市子にとっていちばんの不幸は、アイデンティティが存在しないこと、すなわち、戸籍を持たないことにあった。
 市子は「離婚後300日問題」の犠牲者なのであった。
 本作は、無戸籍の女性の半生を描いた映画なのである。

離婚後300日問題とは、日本の民法(明治29年法律第89号)772条の規定およびこれに関する戸籍上の扱いのため、離婚届後300日以内に生まれた子が遺伝的関係とは関係なく前夫の子と推定されること(嫡出推定)、また推定されて前夫の子となることを避けるために戸籍上の手続きがなされず、無戸籍者の子供が生じている問題をいう。300日問題、離婚300日問題とも呼ばれる。(ウィキペディア『離婚後300日問題』より抜粋)

 戸籍という制度自体の良し悪しは別として、日本において戸籍を持たないことはほとんど社会生活の死を意味する。
 住民票、パスポート、運転免許証、銀行口座、マイナンバーカード、保険証などが作れない。婚姻届けに戸籍が必要となるため、結婚もできない。就職の選択が極端にせばまれる。多くの行政サービスが受けられない。

 市子の場合、亡くなった妹・月子(戸籍を持っていた)になりすますという手段があったのだが、プロポーズを受けた翌日に流されたテレビニュースで、その可能性はついえたのであった。

 市子を演じる杉崎花が素晴らしい。
 非常に難しい役を、あたかも市子が憑依したかのような、柔軟無碍の感性で演じている。
 そう言えば、民俗研究家の筒井功によれば、市子の“イチ”とは「シャーマン、呪的能力者」を意味するのだそうだ。

 市子の母親を演じる中村ゆりという女優も印象に残る。
 ある意味、すべての元凶はこのだらしのない母親にあるのだけれど、そういう生き方しかできない無明にとらわれた人間存在のどうしようもなさを体現している。

 戸田彬弘の映画ははじめて観たが、季節感を生かした美しい映像の作れる人、役者から自然体のいい演技を引き出せる人のようだ。
 今後に期待。

 「離婚後300日問題」は、2022年12月の民法一部改正を受け、2024年4月に解消した。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損