前回飛鳥に来たのがいつだったか思い出せない。
いや、藤原京を飛鳥に含むとすれば、3月の奈良大学通信教育スクーリングで訪れている。
が、ソルティの中では、やはり、聖徳太子や推古天皇や蘇我氏が活躍した頃の政治・文化の中心地を飛鳥とみなしたいのである。
つまり、山岸涼子作『日出処の天子』の舞台である。 (ただし、斑鳩宮はかなり離れている)

3日目(4/27)晴れ
いや、藤原京を飛鳥に含むとすれば、3月の奈良大学通信教育スクーリングで訪れている。
が、ソルティの中では、やはり、聖徳太子や推古天皇や蘇我氏が活躍した頃の政治・文化の中心地を飛鳥とみなしたいのである。
つまり、山岸涼子作『日出処の天子』の舞台である。 (ただし、斑鳩宮はかなり離れている)

3日目(4/27)晴れ
09:00 橿原神宮駅前
自転車レンタル
09:20 明日香村
09:40 甘樫丘展望所
10:20 飛鳥寺(安居院)
10:50 飛鳥坐神社
11:00 酒船石
11:15 岡寺
12:00 石舞台古墳
昼食
13:00 天武・持統天皇陵
13:20 近鉄橿原線・飛鳥駅
自転車返却
13:30 飛鳥駅発
15:00 JR京都駅発

近鉄橿原線・橿原神宮前駅
駅前のレンタサイクル店に開店と同時に行くも、電動アシスト付きは予約で押さえられていた。普通の自転車で Let's GO !

住宅街が終わり、畑と空が広がる。
そこは明日香村。
時間の流れがゆるやかになった。

まずは甘樫丘(148m)に登り、北側の大和三山にご挨拶。
三山を含む広い平野(ほぼ目に入る地域)が藤原京の跡地である。
デカさが実感される。

香久山

耳成山

畝傍山

南側に飛鳥京の跡地を望む

畑仕事している男性に飛鳥寺への道をきいたら、とても親切に教えてくれた。観光客ずれしていないんだな。

飛鳥寺
蘇我馬子の発願により推古天皇4年(596)に創建された日本最初の寺院。
安居院という名をもつ。

本尊の飛鳥大仏(釈迦如来坐像)
609年、鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた日本最古の仏像。
高さ3m、銅15トン、金30kgが用いられたというから、聖徳太子や蘇我氏の仏教受容の気合いのほどが偲ばれよう。
鎌倉時代の火災による破損のため、当初の部分が残っているのは顔面の上半分と右手指3本。そのせいか国宝には指定されておらず、撮影自由であった。

アーモンド形の目はたしかに、アルカイックスマイルと並ぶ飛鳥仏の特徴である。

飛鳥寺より甘樫丘を望む。
中心やや左下に見えるのは、蘇我入鹿の首塚。
うららかだ。

飛鳥坐(あすかにいます)神社
創建不明の古社。
大国主神の御子である事代主神(ことしろぬしのかみ)を主祭神とする。
お多福と天狗が夫婦和合の「種つけ」をし、稲の豊穣・子宝を願う天下の奇祭「おんだ祭り」で有名。
現在の宮司は飛鳥家87代目当主である。

酒船石
長さ約5.3m、最大幅約2.3m、高さ約1mの謎の花崗岩。
酒を醸造したという説からこの名で呼ばれているが、用途不明。

卜占(水占い)に使われたという説もある。

岡寺
663年、義淵僧正による創建と伝わる。
国宝の義淵僧正像(木心乾漆像)は超国宝展でお会いできた。

本堂
日本最大(約4.6m)の塑像である如意輪観音さまがいらっしゃる。
右手は施無畏印、左手は与願印、足は結跏趺坐というオーソドックスな像容が意外。六臂(六本の手)をもち片膝を立てて思惟する通常の如意輪観音とはまったく異なる。奈良時代の作と伝わるが、あとから作り直された部分が多そう。子供の粘土細工のような稚拙さがかえって可愛い。

三重塔
1986年に514年ぶりに再建された。

岡寺より見下ろす飛鳥の里
ここまでの登りが人力自転車には最もきつかった。

ふと空を見上げると龍が泳いでいた。
いいことありますように。

石舞台古墳
今は石が露出しているが、もともとは土がかぶせてあり、一辺約50mの方墳をなしていた。
蘇我馬子の墓とされる。

飛鳥のシンボルというにふさわしい存在感。
この角度からだと、馬子(『日出処の天子』に出てきた熊親爺)が横たわっているように見える。
中は空洞(石室)になっている。

馬子の頭側から中に入れる。

長さ約7.8m、幅約3.4m、高さ約4.8mの花崗岩の石室。
江戸間の6畳×2間くらいの広さ。
ここに馬子の遺体を入れた棺や副葬品が納められていたのだろう。

玄室内より見た出入口
夏は涼しいかもしれない。

石舞台古墳を見ながらおにぎりをほおばる。
芝生広場で家族連れが遊ぶ平和な光景。
奈良っぽい。

飛鳥では外国人観光客をまったく見なかった。
この良さが知れ渡るのも時間の問題だろう。

天武・持統天皇陵(野口王墓)
叔父と姪の夫婦である。

現在の墳丘は東西5.8m、南北4.5m、高さ9mの円墳状だが、本来は八角形の五段築城で、周囲に石段をめぐらしてあった。
以下、ウィキペディア「野口王墓」より抜粋。
本古墳は1235年(文暦2年)に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。