2025年中公新書
副題の通り、「古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで」の、3000年に及ぶユダヤ人の歴史が要領よくまとめられている。
労作であることは間違いない。
読みながら二つのことを思った。
一つは、たとえば、鶴見と同じ43歳のユダヤ人の学者が、『日本人の歴史』なる本を書いたと想像したとき、われわれ日本人はそれを読んでどう思うだろうか、ということである。
少なくともソルティの場合、「なんとまあ無謀なことにチャレンジしたものよ」と著者の酔狂ぶりに感心し、「ちょっと見当違いのことが書いてあるなあ」と思い、「やっぱり、歴史的な事実は並べられても、日本人の心すなわち歴史を動かした大物たちの動機や群衆心理まではなかなか理解が届かないものだ」といった感想を抱くことだろう。
それは、日本人のユニークネスを守りたい顕示欲のなせるわざである。どこの国民にも多かれ少なかれ、そういったナショナリズム・バイアスはあると思う。
一方で、外国人という他者から見た日本や日本人が如何に見えるかを知る面白さも、そこにはあることだろう。
自分が思いもよらなかった日本の良さや難点、当たり前に思っていた日本人の行動を他文化によって相対化したときの奇態さに、視野が開かれる愉しさを味わうことだろう。
もう一つは、「それでもなお、日本人の歴史を書くことは、外国人の学者にとって、さほど難しいことではないかもしれない」ということである。
というのも、日本の歴史とはほとんど国内史だからである。
外国に征服されたこともなければ、民族構成が大きく入れ替わったこともなく、国体が崩れたこともない。
一本の線のように単調で、わかりやすいのだ。
刀伊の入寇や蒙古襲来、あるいは白村江の戦いや秀吉による朝鮮出兵など、外国との小競り合いはあったけれど、他国を併合したり他国に占領されたりの大きな動乱があったのは、神話・伝承の時代を含めても、韓国併合(1910年)からサンフランシスコ条約締結(1951年)までのたかだか40年においてのみである。
我が国に真の民族的・国家的危機が迫ったのは、(2011年3月の福島原発メルトダウンを除けば)太平洋戦争敗北時のみである。
なんだかんだ言って、世界史的に見れば、日本は平和な、恵まれた国なのである。(それゆえに、国際政治が下手なのだろう)
そのことをつくづく感じさせてくれるのが、ユダヤ人の歴史である。
ユダヤ人ほど波乱万丈な歴史を歩んだ民はいない。
『旧約聖書』における神とアブラハムとの契約から始まって、モーゼの脱エジプトと十戒、バビロン捕囚、ローマ帝国による神殿破壊とディアスポラ(民族離散)、中世の十字軍による迫害やヨーロッパ各地において勃発した他民族による集団暴力(ポグロム)、ナチスによるホロコースト、そしてイスラエル建国からのアラブ諸国との戦争。
まさに迫害と受難の歴史である。
同じ一つの土地で、ほぼ同じ民族が、天皇制という国体を2000年近く保ち続けてこられた日本人と、何世紀ものあいだ故国を持たずに世界中をさまよい続け迫害されてきたユダヤ人は、まったく真逆の座標に位置する。
日本人の歴史の単調さは、ユダヤ人の歴史書に置いてみれば、注釈で触れるくらいの軽い扱いで済むレベルであろう。
それだけに、戦後生まれの日本人の学者がユダヤ人の歴史を書くということの無謀さ、というか不敵な精神を思うのである。
鶴見自身も「あとがき」で、自らの“不遜さ”を認めている。
不遜、大いに結構。
新しい視点は、不遜なる若手から生まれる。
出来栄えについては、正直、歴史オタクでないソルティには判断できない。
ただ、著者が「まえがき」に書いている執筆方針、すなわち、「世界史やユダヤ教に関する予備知識なしでも通読できる」、「世界史を今まさに学んでいる高校生や世界史を復習したい読者にもなじみやすい」という部分は、素直に頷けない。
内容はかなり高度で、初心者向けとは言えない。
さて、ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人の謂いなので、彼らのアイデンティティの核となるのは、「神との契約によるカナンの地の占有権」、「選民思想」、「メシア待望」、「律法遵守」といったあたりにあろう。これがいわゆるシオニズムである。
で、ソルティ思うに、上記に加え、3000年の受難の歴史そのものもアイデンティティになっているのではなかろうか。
つまり、「世界から忌み嫌われ、いじめられ、民族絶滅の危機に至るほどの迫害を受け、それでもなお、神を信じ耐え抜く我等」が、いまやユダヤ人の重要なアイデンティティを形成しているのではないか。
あたかも、昭和時代の演歌に登場する「不幸に耐えながら、春を待つことが生き甲斐になった女」のように。
あるいは、「周囲に構ってもらうために、わざとイジメられるようなことをしでかすイジメられっ子」のように。
あるいは、被害者あるいはマイノリティであることに馴れ切ってしまった挙句、自らに不利な状況をすべて「差別、虐待」と捉え、客観的な判断ができなくなってしまった被害者あるいはマイノリティ団体のように。
そうなると、たとえ運が巡って幸福が手に入ったとしても、それを素直に享受できなくなる。幸福になること=アイデンティティ崩壊の危機、なので。
わざわざ世界を敵に回したがっているかのような今のイスラエルの振る舞いを見るにつけ、そんなことを思うのである。
以下、本書より印象に残ったフレーズを紹介する。
反ユダヤ主義は、反ユダヤ的なキリスト教徒とユダヤ人が対峙する単純な構図から生まれ、暴力に発展するのではない。ユダヤ人を金づるとして利用する権力者と、それを腐敗と捉える庶民のあいだにユダヤ人が挟まれるという三者関係こそが、一定期間秩序を維持しながらも庶民の反ユダヤ感情を蓄積していく。政変や不況などでこの権力者のタガが外れたとき、民衆の怨念は一気にユダヤ人に向かうことになった。ユダヤ人自身では変えられない状況のなかで生まれた差異をめぐってユダヤ人同士が対立することは、その後の歴史でも珍しいことではなかった。マイノリティは結束するものと勝手に考えがちだが、マイノリティだからこそ分断が生まれることは、ユダヤ人に限らず珍しいことではない。初期条件が不利なのがマイノリティだからだ。マージナル・マンは、二つの社会のあいだで引き裂かれ、自己が不安定化しやすい反面で、それぞれの社会を、それぞれの中心にいる人びととは異なる視点で眺める目を持つので、より客観的に、さまざまなことを吸収する傾向にあるという。マージナル・マンの頭のなかにこそ、文明化や社会の進歩の過程の縮図があるというパーク(ソルティ注:アメリカの社会学者ロバート・パーク)は指摘する。ユダヤ人が文化・芸術方面で活躍するのはこのためなのかもしれないのだ。ユダヤ人差別というと、ユダヤ人を蔑む方向性ばかりに注目が集まりがちだが、差別とは必ずしも蔑むことだけを意味するのではない。あるカテゴリーの人びとが一様に同じ性質を持つことを、当事者一人ひとりの固有性を無視して決めつけることに差別の基礎がある。そこに蔑みを込めれば典型的な差別になる。しかし、褒めたつもりでも、社会のなかで選択肢が限られた者に対して、特定の役割に押し込める方向で勝手な決めつけを行うのであれば、典型的な差別と本質は変わらないことになる。例えば、ある人が女性だからというだけで子育てに長けているとか料理がうまいと決めつけることが差別とみなされるのは、このためである。イスラエルの社会心理学者ダニエル・バルタルによると、現在のイスラエルでは、アラブ人・アラブ諸国からの攻撃や非難を、おしなべてホロコーストのアナロジーで理解する傾向がある。・・・(中略)・・・この結果、シオニストの加害行為への応報さえも不当な被害として理解する思考が常態化してしまっている。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損