2024年扶桑社

IMG_20250524_131800~2

 よしりん、こと小林よしのりの漫画を読むのは久しぶりである。
 少年時代から30代前半まで、ファンの一人として、『東大一直線』、『おぼっちゃまくん』、『異能戦士』、『最終フェイス』、『ゴーマニズム宣言』を面白く読んできた。
 90年代の薬害エイズ裁判のときは、血友病患者ら原告の味方になって週刊SPA連載『ゴー宣』で世論を盛り上げてくれた。
 ソルティも霞ヶ関の厚生省(現・厚労省)前や大阪の製薬会社ミドリ十字前の抗議デモに参加したが、当時日本テレビ『今日の出来事』でニュースキャスターをつとめていた櫻井よしこの凛とした姿とともに、髪の長い美人秘書に伴われた小林の姿を見かけたものだ。
 きめの細かそうな白い肌にカラスの濡れ髪が映えて、知的で福々したいい男であった。
 『ゴー宣』では被差別部落問題を正面から取り上げて、差別の理不尽なことを“ゴーマンかまし”訴えていた。
 子供の味方、弱者の味方、差別される者の味方、巨悪や不正にペン1本で立ち向かう正義の味方、義侠心の強い九州男児というイメージがあった。

 薬害エイズ裁判が和解決着した90年代末あたりから、なんだか違う方向に行ってしまったなあという感をもった。
 従軍慰安婦問題や新しい教科書をつくる会に関わり始めたあたりから、どんどん右傾化していったように思った。
 そのあたりでファンを離脱してしまった。

 別に小林が転向したわけでも洗脳されたわけでもなく、もとからそういう思想スタンスの男、つまり櫻井よしこ同様、保守主義者だったのだろう。
 今思うに、右も左も関係なく市民が連帯し、声を上げて国に立ち向かい、結果的に国を動かしたのが、薬害エイズ事件であった。
 あれこそ、戦後はじめての、あるいは日本史上はじめての成功体験に終わった市民運動だったのではなかろうか。

デモする人々

 約30年ぶりに小林の本を手に取ったのは、本書がジャニーズ事件を扱っているからである。ジャニーズ事務所の創設者にして、名うての音楽プロデューサーであったジャニー喜多川の少年タレントたちへの性加害問題である。
 といって、下衆な好奇心でもって煽情的に扱っているのとは違う。
 ジャニーズ事件を通してあからさまに示されたキャンセル・カルチャー、および事件の裏に潜む日本人の性観念――とくに男色に対する――の問題が追求され、考察されている。
 そこがソルティの興味を引いた。

 まえがきで、小林は次のように書いている。

本書はいわゆる「ジャニーズ問題」を突破口にして、日本人の「芸能」と「性意識」についての考察に主眼を置いたうえで、日本特有の文化について、メディアの乱痴気騒ぎとは別の視点で改めて問い直そうという試みである。

 初めに小林は、2023年9月1日に行われたジャニーズ事務所による記者会見を皮切りに、一連のマスメディア側の取材姿勢や報道のおかしさ(狂気)について、具体的に描き出す。
 事実を調べ被害者証言の裏をとることをなおざりにしたまま、ジャニーズ事務所の幹部らを追求し断罪する記者たちに違和感を示し、刑事裁判の被告でもなかったジャニー喜多川を一方的に「犯罪者」呼ばわりすることに異議を申し立て、「ジャニーズ」という会社名と創設者のすべての功績を無にしようとする、メディア先導の集団バッシングを「魔女狩り」になぞらえる。
 また、英国大手メディアBBCに報じられたのをきっかけに国際的問題になるや、手のひらを返すように、ジャニーズ事務所への忖度から攻撃へと態度を変え、一転、殊勝な顔して反省の弁を述べたてるマスコミの偽善を“よーしゃなく”暴き出し、問題が大きくなる前は、ジャニー喜多川に感謝しジャニーズの威光を利用して金儲けしていた当事者会のメンバー(止めジャニ)に対する不信の念を表明する。
 一方、マスコミに追求されるまま非を認め、謝罪し、被害者への“法を超えた”補償を口にし、創業者にして最大の恩人であるジャニー喜多川を葬り去る事務所幹部ら(元アイドル)の態度についても、「無条件降伏」とこれを揶揄している。
 小林は、こうした一連の流れをキャンセル・カルチャーととらえ、問題視している。

キャンセル・カルチャー(cancel culture)とは、「容認されない言動を行った」とみなされた個人が、「社会正義」を理由に、法律に基づかない形で排斥・追放されたり解雇されたりする文化的現象。
キャンセルの対象は、存命人物の直近の言動、存命人物の過去の言動、歴史上の人物の過去の言動、という3つの類型がある。3つ目の例としては、過去の軍人や政治家の銅像や記念碑などが、戦争や人種差別を理由として抗議対象となることが挙げられる。
(ウィキペディア『キャンセル・カルチャー』より抜粋)

 後半は、今回の事件の原因を探るなかで浮上した、「なぜ、メディアはジャニー喜多川の少年に対する性加害を知っていながら、何十年間も黙って見逃していたのか?」についての考察が中心である。
 ここで小林は、日本人の伝統的な性観念や古来の男色文化を取り上げている。そこに上記の疑問に対する答えがあるという。
 最後に、日本人の「芸能」と「性意識」についての切っても切り離せない深い関係を踏まえたうえで、「文化と人権が対立する局面では、ワシは文化の味方をする」とゴーマンかましてペンを置く。

 ソルティは本書を2度読んだ。
 同意するところも多かったし、考えを異にするところもあった。
 以下、それを述べたい。

IMG_20240702_133610

★ “よーしゃなく”同意

1 キャンセル・カルチャーへの違和感 
 
 人は誰でもその時代の価値観の中で生きているもの。これを現在の価値観で断罪するのは、後世の人間の思い上がりでしかなく、やってはいけないことだ。(本書より)

 基本的に同意。
 たとえば、「歩きタバコ禁止条例(路上喫煙禁止条例)」がなかった時代に歩きタバコしている人がうつっている写真や映像を今になって持ち出して、それを証拠にその人を非難し、断罪し、職や地位を奪うほど追い詰めるのはナンセンスだし、それをやったら世の中収拾がつかなくなる。
 新しくできた法律によって、その法律ができる前にその行為を犯した人間を裁くことはできない。
 それを「良し」とするなら、そのうち「歩きスマホ禁止条例」ができた暁には、どれだけ多くの人間が後の世代によって断罪されることか!

 また、たとえ現行の法律を犯す行いをしたとしても、その処罰は法律によって定められている範囲を超えないことが原則であろう。
 マスメディアの興隆がそれを打ち破ってしまった。 
 インターネットの登場、とりわけSNSはそれをなし崩しにした。
 たとえば、ほんの出来心から少女が万引きした。少女の映像が、匿名の目撃者(撮影者)によって誰だか特定できる形でネットにアップされるやいなや、少女の実名や住所や学校が暴き出され、映像はデジタルタトゥーとして残り、生涯彼女やその家族を苦しめることだろう。
 昨今、犯した罪に対する社会的制裁が重すぎる、罪と罰のバランスが狂っていると思うケースがあまりに多い。

 ジャニーズ事件の場合の罪と罰のバランスが適切だったのかどうか、ソルティにはわからない。
 そもそも肝心の加害者が亡くなっていて、ジャニー喜多川に対して刑事訴訟を起こすといった法的手段を取りようもないところに、今回の問題の難しさがあった。
 ジャニー喜多川のすべての業績を抹消して、戦後半世紀にわたり日本文化の小さくない一角を形作ってきた団体を潰すという、今回の“まったく法に則らない”罰(=キャンセル・カルチャー)が果たして適正だったのかどうか・・・・。(一方で、カルト教団と結託、せっせと裏金を備蓄、国民をだましながら、しぶとく生き残り続けている某政党もあるのに)
 少なくとも、ジャニー喜多川を継いで性加害者になってしまった一部の者を除けば、元ジャニーズのタレントたちには罪がない。

 キャンセル・カルチャーによって過去を一方的に断罪するのは軽率が過ぎる。
 が、過去の歴史から学ぶことは重要であろう。
 過去に犯してしまったあやまちを反省し、その原因を突き止め、将来同じあやまちを起こさないようにするため、過去の行為を客観的に分析・批判する姿勢は大切だ。
 それは断罪でもキャンセル・カルチャーでもなく、人類のトライ&エラーの学習である。

IMG_20250306_163451

2 日本人は元来、性に対する大らかさを持っていた。  

 これも同意。
 多くの文献や研究がその真なることを裏付けている。
 当ブログでもいろいろな図書を紹介してきた。
 橋本治『性のタブーのない日本』、三橋順子『歴史の中の多様な「性」』、須永朝彦『美少年日本史』、安藤優一郎『江戸文化から見る 男娼と男色の歴史』、大塚ひかり『本当はエロかった昔の日本』、永井義男『江戸の売春』、松尾剛次『破戒と男色の仏教史』・・・e.t.c.
 特に日本は、古代ギリシアと並ぶ人類史上稀なる男色是認の国であり、古代から江戸時代まで、僧侶や貴族や武士や町民ら男たちの間で、男色があたりまえに行われてきた。
 文明開化の明治維新になって、西洋並みになろうとする国の方針から男色(鶏姦)が忌避され、男色家(同性愛者)は日陰者のごとく抑圧された存在になっていった。
 昭和初期には、世間からそれが“あるまじき”存在=背徳者とみなされるようになっていたことは、江戸川乱歩『孤島の鬼』(昭和5年)や三島由紀夫『仮面の告白』(昭和24年)などから推察することができる。
 しかし、明治維新によっても、戦後のGHQによる欧米化によっても、性の多様性を愉しむ日本人の伝統は途絶えることなく、それは芸能を主とする非日常世界において延命した。
 歌舞伎の女形、宝塚の男役、祭りにおける男装や女装、美輪明宏やカルーセル麻紀やおすぎとピーコなどブラウン管の中の“色物”としてのおかまタレントなどである。(美輪明宏のような存在は、欧米のどの国を見渡しても見つかるまい。その芸術性の高さや日本の伝統文化のユニークネスを世界にアピールした貢献度により、人間国宝になって然るべきと思う)
 
 この伝統あればこそ、ジャニーズ問題は起きたのだと小林は指摘する。
 つまり、マスコミがジャニー喜多川の性癖(=少年愛)を知り、事務所所属の10代のタレントらを立場を利用して“食っている”ことを知りながら、国際問題に発展するまでそれを見逃し続けたのは、広告業界に対して巨大な力を持つジャニーズの力に怯え忖度したからではなく、そもそも彼らマスコミが、それを「大したことじゃない」と思っていたからだと言う。
 
 噂としては聞いているけれど、本当のことかどうかわからない。民事裁判で事実認定されたといっても、刑事事件にはなっていないし、それに芸能界の話だから・・・・といったあたりが、マスコミがスルーした理由だろうが、そのすべてが、結局は「大したことじゃない」の一言に集約される。
 
 日本人にとっては「大したことじゃない」けれども、欧米のキリスト教文化圏の人間は「大したことじゃない」などとは絶対に思わない。
 欧米人にとってはとてつもなく「大したこと」なのだ。つまり、日本人と欧米人の間に決定的な価値観の相違が存在するのである。
 その相違とは何かといえば、もともと日本には男色文化があり、しかも日本の男性アイドルというカルチャーのルーツには、江戸時代の「陰間茶屋」があって、そこでは男色の売春だの枕営業だのは当たり前という、「暗黙のルール」があったからだということになる。
 このような歴史に基づく「暗黙のルール」は、現代人にも引き継がれている。誰も自覚してはいないが、無意識の感覚の中にずっと潜んでいたものなので、みんな知らず知らずのうちにその感覚でジャニーズを見ていたのである。(本書より)

 このように、日本の伝統文化と絡めた視点からジャニーズ問題を解析した文章は、はじめて見た。
 小林の日本文化や歴史に対する造詣の深さと、いくつもの漫画をヒットさせ「こんにチワワ」「そんなバナナ」などの流行語を生み出した才能の出所である世相に対する鋭くユニークな読み、そしてタブーを恐れない率直な物言いには、「さすが、よしりん」と感服した。

IMG_20240702_140614

3 日本には真の保守がいない

 これも激しく同意。
 現在、日本で「保守」を自認する者は、おおむねLGBTに不寛容である。
 「生産性がない」とか「種の保存に背く」とか「伝統的な家族観に背く」とか「国や社会が壊れる」といった保守政治家の差別的発言が目立つ。
 しかし、上記の小林の言説の通り、同性愛(衆道)はある意味、古来日本の文化的伝統だったのである。
 おおらかな性、多様な性に寛容な社会こそ、少なくとも江戸時代まで続いた日本の本然なのであり、能や歌舞伎をはじめとする芸能、日本仏教、武士道、祭りなどの神事、井原西鶴や滝沢馬琴や松尾芭蕉に代表される江戸文学など、日本の文化を男色と切り離して考えることはできない。
 いみじくも日本の伝統を守ることを「保守」というのなら、LGBTを否定する者を「保守」ということはできない。

 亡くなった安倍晋三元首相の「日本を取り戻す」の言葉に象徴されるように、今の日本の保守主義者が「守りたい」「復活させたい」と望んでいるのが大日本帝国時代の日本の姿であり価値観であることは、自民党の「日本国憲法改正草案」を見れば明瞭である。
 大日本帝国は、日本の長い歴史から見ればたかだか60年間(1889~1947)存在した、それこそ明治の元老たちの理念と戦略によって机上で作られた、伝統とは切り離されたイデオロギー国家だったのであり、それもすでに、現行・日本国憲法下の日本(1947~2025)によって20年も長く上書きされている。
 彼ら自称保守主義者の言う「伝統的家族」とは旧民法におけるそれであって、それは柳田国男や伊藤幹治ら民俗学者が喝破したように、日本人の伝統的な祖霊信仰を梃子にして、「家」という末端組織を天皇を「父」とする国家神道に接続・統合させるための戦略だったのである。

 小林はまた、キャンセル・カルチャーに対する態度からも、日本の保守派を批判する。
 すなわち、

 キャンセル・カルチャ―は、アメリカのリベラルに発する左翼イデオロギーであり、それはグローバリズムの荒波に乗って襲来した海賊どものようなものだ。日本国の文化と歴史を破壊し、ナショナリズムを消滅させてしまう。(本書より)

 ところが、日本の保守派は、グローバリズムに抗わずキャンセル・カルチャーに加担してしまっている。左翼となんら変わるところがない。
 だから、「日本に真の保守はいない」と言う。

IMG_20250105_144327

★ “すぺぺーっ!”異義あり

1 キャンセル・カルチャーの主体は左翼リベラルか?

 小林が左翼リベラルが嫌いなのは本書を読むとよくわかる。
 二言目には左翼リベラルに対する批判が口に上る。
 キャンセル・カルチャーも左翼イデオロギーと断じている。 
 ちょっと短絡的な気がする。
 
 どちらかと言えば左派のソルティも、ここ最近日本でSNSを尖峰部隊として巻き起こっているキャンセル・カルチャーには眉を顰めざるをえない。
 大方の年輩者(昭和世代)も同じなのではないか。
 つまり、SNSがその主戦場になっていることがまさに示しているように、「右・左」の別よりも、世代間ギャップという因がそこにはあるように思う。
 ソルティの知っているオールド左翼の知り合いの顔を思い浮かべても、キャンセル・カルチャーに乗じて見ず知らずの他人を回復不能までバッシングするような人間は思い当たらない。
 人を叩くにも節度というものがあることを彼らは知っている。
 そもそも、ジャニーズ事件のような最新の芸能ニュースに詳しいミーハーな人はむしろ少ない。(ただし、ゲイの知り合いはのぞく)

 アメリカの大学キャンパスを席巻するキャンセル・カルチャーを分析した本、『傷つきやすいアメリカの大学生たち』(グレッグ・ルキアノフ+ジョナサン・ハイト共著)によると、キャンセル・カルチャーが目に余るようになったのは「インターネット世代」いわゆる「Z世代」が登場してからだという。
 生まれた時からインターネットと携帯電話が存在し、感受性の強い10代でスマホと出会い、人間関係の大きな部分がSNSによって成立している世代が、キャンセル・カルチャーを牽引している主役だというのである。
 たしかに、SNSを通じて不特定多数の人とつながり、匿名による率直過ぎるコメントを不用意に投稿し、相手との関係が不快なものになれば、関係を簡単に「切断」し、履歴を「消去」し、アカウントを「削除」できる。クリック一つで関係を「キャンセル」できる。
 面と向かって相手に言えないような無礼な言葉でも、ネット上なら平気でぶつけることができる。
 ネット外の日常生活では誰もまともに聞いてくれない自らの発言でも、ネット上なら、全国の多くの人に――中には政治家や芸能人や大手メディアもいる――読んでもらい、反応を得ることができる。(金にもなる)
 こういったITによって生まれた新しいネット文化が、それまでの(日本ならおおむね昭和時代までの)人間関係のあり方や世論のあり方を大きく変えてしまったことは、間違いないと思う。
 まだしも昭和世代は、インターネットのない時代の人間関係のあり方や公共空間で論争するときのマナーを知っているので、ある程度は、ネット文化を相対化する目を持っていよう。
 一方、生まれたときからインターネットが存在しSNSを使いこなしている世代は、それがコミュニケーションスタイルのデフォルトになりがちである。
 そこに、キャンセル・カルチャーが生まれやすい土壌があるのではなかろうか。

 ただし、単純に世代間ギャップの問題とするのは正確ではない。
 単にZ世代の若者がITと親近性が高いというだけの話であって、Z世代の若者にもキャンセル・カルチャーに乗じない人はたくさんいるし、昭和世代の人間にもキャンセル・カルチャーにはまってしまう人はたくさんいる。
 つまるところ、インターネットというツールを、“人を攻撃し自己顕示欲を満足させる(金になる)武器”として用いる快感を発見してしまったか否かの違いであろう。

IMG_20240616_160818~2

 ジャニーズ事件におけるキャンセル・カルチャーの問題も、もっと精妙に実態を見ていく必要があると思う。
 リベラル左翼だけに責を追わせるのは短絡的である。
 ソルティが思うに、ジャニーズ叩きを先導(扇動)した人たちには以下のようなグループが存在し、それぞれ別個の動機を持って参加していたのではないか。
  1. リベラル左翼・・・・小林が言うところの左翼的思想を持つ「人権活動家」である。
  2. マスメディア・・・・ジャニーズ事務所の長年のパワハラに耐えていたことの意趣返し、及び、煽情的なニュースによる視聴率アップを狙う。
  3. 一部保守派や反LGBTの人たち・・・・LGBTを“青少年を毒する犯罪者予備軍、異常者”として攻撃し貶める絶好の機会を得た。
  4. ジャニーズの活動に対して反感を抱いていた人たち・・・ジャニーズ事務所の専横によって不遇の目に遭わされた非ジャニーズ系のタレントたちの熱狂的ファン(たとえばO田H之やN森A菜の)
  5. 愉快犯・・・・とにかくバッシングできる対象があればそれに加担し、他人が転落するのを見るのが好きな人たち。金儲けのためにアクセス数を増やすことが目的の人もここに入る。(これが結構多いのでは?)
  6. 性の乱れに怒りを覚える宗教組織の信者たち・・・わかりやすいところでは旧統一教会。
 ジャニーズ事件における、このように複雑に入り乱れたキャンセル・カルチャーの実相を、リベラル左翼の仕業一つに帰してしまうのは、「55年体制」の支配した昭和的な視点に囚われた時代錯誤の見方だと思うし、国民を右と左に分断して現在のアメリカのような二極化をあおるだけだと思う。

IMG_20250523_095421

2 日本の男色文化の伝統が、我々がジャニー喜多川の性加害をスルーしていた理由なのか?

 日本の歴史に基づく「暗黙のルール」が、ジャニー喜多川の少年たちへの性加害を「大したことじゃない」と我々に思わせていた、という小林の説は納得のいくものであろうか?
 喜多川氏と同じゲイであるソルティは、心情としてはこの説に同意したくなる。
 「そう、日本は、LGBTを迫害してきたキリスト教社会の西洋とは違う。日本人は男色に寛容であった。その流れはいまも日本人の血の中に残っているはず」と。
 だが、そこには文明開化以降の150年以上の断絶がある。
 現代の日本人の多くは、小林が本書でくわしく解説してくれたような日本の男色文化史を知らない。
 知識としては知らなくとも「無意識の感覚の中にずっと潜んでいた」なんてことがあるだろうか?

 思考実験をしてみる。
 いま、チャーリー北山の創設した芸能事務所があって、そこにたくさんの10代の美少女が所属し、芸能界にアイドルを供給している。
 チャーリー事務所は、テレビ業界(=広告業界)にとっては今やなくてはならない、忖度必至の巨大な組織になった。
 実は、チャーリー北山は、集めていた少女を夜な夜な自分のマンションに呼んで性奉仕させていた。某国営放送局の建物のトイレの中でも、レッスンの合間に行われていたという。その被害者は数百人に及び、中には小学生もいた。
 その噂は一部週刊誌でも取り上げられたことがあり、業界のみならず、世間でも知る人は少なくなかった。
 被害を受けた少女の一人は、民事裁判に訴え、最終的にはチャーリー北山による性加害の事実が認められた。
 だが、この事実は海外の有名な放送局が取材し報道するまで、日本では何十年間も追求されることなく、放置されていた。
 なぜなら、日本には古来、少女を買い取って遊郭や女郎屋に売り、芸を仕込ませ美しく着飾らせ、客を取らせる伝統があり、その中から歌舞伎や浮世絵や日本舞踏や着物など現代に続く文化も生まれているからである。

 この話が通るだろうか?
 昭和・平成を経て2020年代まで、業界も社会も「それは噂に過ぎない」、「大した問題じゃない」として、チャーリー北山による少女たちへの性加害をスルーし得ただろうか?
 マスメディアは、「チャーリー事務所に逆らうのは怖い。タレントを使えなくなるのが怖い」からと言って、噂を見逃し、事務所に忖度し続けたであろうか?
 2000年代には各地の自治体で淫行条例が次々と誕生していた風潮の中で――。

 いや、少女と少年では場合が違う――と思うかもしれない。
 そう、少女と少年では違った。
 そこに、今回の問題の核心があるのだとソルティは思う。
 つまり、日本では「少年の性被害」、もっと広く言えば、「男性の性被害」という概念がなかったのである。

 男はセックスにおいて、加害者になることはあっても被害者になることはないと、みなされていた。
 男に無理やりレイプされた当の男でさえ、自らを被害者と認識するのは難しかった。
 ましてや、相手を警察に訴えるなんて、世間の笑い者にされるのがオチだった。
 性被害を警察に訴え表沙汰にするのは、女性であっても非常に困難なことである。
 司法や世間の好奇の目にさらされることを覚悟しなければならない。セカンドレイプという言葉もある。
 「男は強くあらねばならない」という規範が強い社会で、性被害の当事者として顔を出せる男などまずいない。(それだけに、元フォーリーブスの北公次が1988年に『光GENJIへ』を出版し、十代の頃受けたジャニー喜多川からの性加害を赤裸々に描いたときは驚いた。ベストセラーになったが、大手メディアはこれを黙殺した)

IMG_20250523_095408

 当事者はともかく、マスコミをはじめとする世間が「男性の性被害」に鈍感だったのは、なぜか?
 一つには、ちょっとした誤解がそこにあるからだと思う。
 レイプされた女性には苦痛しかない。男にレイプされ抵抗しているうちに感じてくる、というポルノ作品によくあるストーリーは、男の願望のつくりあげたフィクションであって、「嫌なものは嫌!」「無理やりされて気持ちいいわけがない!」が正解である。
 一方、レイプされた男性が最後に射精で終わった時、それまでのすべての行為が快感に至るための前戯になってしまう。「気持ちよかったろう?」という強姦者の一人勝手な言葉を否定したくても、射出された白い液体はそれを裏切る。射精=快感という単純な生理機能は、世界中のすべての男に共通理解されているからだ。
 十代の男は性欲が強い。睾丸をパンパンにするほど溜まってくる精液を適宜抜かなければ、仕事にも勉学にも集中できない。
 だから、中には、ジャニー喜多川がしてくれる性奉仕を便利な性処理の手段として、および社長に気に入られる裏技として、深刻に受け止めていなかった少年もいたかもしれない。
 性に対する意識のありようは人それぞれなのだ。
 一方で、それを「死にたい」と思うほどつらく感じた少年もいたことだろう。
 彼にとっては、たとえ最後は射精で終わっても、「嫌なものは嫌!」なのだ。

 メディアで働く男たちが、ジャニー喜多川による性加害の噂を聞いても「大したことじゃない」とスルーしたのは、日本古来の男色文化云々よりも、もっと単純に、「自分には関係ない」だったからじゃなかろうか?
 大人の男が少年を犯したという噂を聞いても、大抵のヘテロの男は関心を持たない。
 相手が女でないからだ。
 「変わった趣味(変態)だなあ」、「俺には絶対無理」くらいの感想をもつくらいで、被害を受けた少年に同情することもなかろう。せいぜい、「災難だったな」が関の山。
 自分や自分の息子が被害者にならない限り、他人事で済む。
 これが、被害者が少女だったら話が別である。
 加害者の男に対する怒りやら羨望やら、被害を受けた少女に対する興味やら憐憫やら、いろいろな感情が身内に湧き上がることだろう。
 自らの性欲を刺激するがゆえに、傍観視することができず、「大したこと」となる。
 ニュースヴァリューも大きい。

 一方、メディアで働く女たちは、男の生理がよく分からない。
 男に犯された少女の心情は自分事としてわかっても、男に犯された少年の心情はつかめない。
 周囲の男たちが言う「大したことじゃない」という言葉を鵜呑みにするほかないだろう。
 また、少年虐待事件として捨て置けないと思い、問題化したいと思った女性記者がいたとしても、オッサンの壁の中ではなかなか意見が通らなかっただろう。

 つまりソルティの言いたいのは、空気のように昭和&平成日本を覆っていたマチョイズムの風潮が、男の性被害という問題を見えなくしていたため、意図的でないにせよ、ジャニー喜多川の少年への性加害を「大した問題じゃない」と軽視させていたのではないかということである。
 わざわざ苔のむした男色文化を持ち出す必要はないと思う。

 ともあれ、今後ジャニー喜多川のような怪物的な少年捕食者が日本の表社会で成功することはあり得ないし、性被害を訴える少年や男たちの声がまったく無視されたり、かき消されたりすることもないだろう。
 パラダイムは変わった。

IMG_20240519_163351



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損