1957年講談社
1960年新潮文庫

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 初読である。
 「美徳のよろめき」というタイトルからソルティがいつも連想するのは、若尾文子であった。
 本作が映画化されたときに主演の倉越節子を演じたのは、若尾ではなく、月丘夢路である。TVドラマでは、川口敦子(1961)、藤谷美和子(1993)が演じている。
 若尾が主演した三島作品は、『長すぎた春』、『お嬢さん』、『獣の戯れ』の3作であり、いずれも若尾の代表作たりえなかった。
 ほかに、三島由紀夫と共演で『からっ風野郎』というヤクザ映画の珍品に出ているが、これは三島原作ではない。

 若尾文子はむしろ、谷崎潤一郎と相性が良かった。
 『瘋癲老人日記』、『卍』、『刺青』は、いずれも若尾文子の魅力全開の傑作である。
 これらの作品の中で、若尾は、「自らの若さとセックスアピールを武器にその虜になった男や女を手玉にとる」キャラクターを演じている。
 つまり、谷崎のようなマゾヒストにとって、理想の“女王様”である。

 20歳のときに出演した『十代の性典』がヒットし、若尾は一躍人気女優の仲間入りしたが、その際に「性典女優」という有り難くないニックネームを奉られた。
 若尾自身はその名称を嫌ったようだが、その後、溝口健二監督『祇園囃子』、『赤線地帯』によって鍛えられ本格的な女優への道を歩むようになってからも、エロチックなイメージは常にまとわりついていた。いや、むしろ、濃厚になったというべきか。
 今度は、「確信犯的に」そうしたイメージを自らの“売り”にしたようにさえ思える。

 ソルティが女優としての若尾文子をいつ認識したのかよく覚えていないのだが、思春期の頃には、「性的な匂いのする、PTAに嫌われる大人の女優」と位置付けていた。
 休日の昼下がりにテレビ東京あたりで放映された水上勉原作×川島雄三監督『雁の寺』を、こっそり観たせいかもしれない。(同じ水上なら小柳ルミ子主演『白蛇抄』のほうがエロかった)

 一方、若尾文子には着物の良く似合う大和撫子風“耐える女”のイメージや、黒川紀章によっていみじくも譬えられた“バロック”風貴婦人のイメージもあり、大女優として侵しがたい気品を備えていた。
 三島作品に適合するのは、若尾のこの気品あるたたずまいである。
 淑女や貞女と言うにふさわしい美しい女性が、ふとしたきっかけで道を踏み外し、秘められていた女の情念を暴発させる。
 このギャップ(=美徳のよろめき)こそ、若尾文子という日本を代表する映画女優の持ち味であり、かつ三島作品の女主人公の典型であると思うので、ソルティは若尾にこそ、『鹿鳴館』の朝子、『愛の渇き』の悦子をスクリーンで演じてもらいたかったのである。(浅丘ルリ子の朝子や悦子も悪くはなかったが)

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折り目正しい家庭に育った有閑夫人のほんの火遊びが、いつの間にか本気の恋にかわっていく。彼女は妊娠・堕胎するところまで行くが、運よく、破綻が来る前に身を引くことができた。

 単純化すれば、これだけの話である。
 令和の現在なら物語の種になりえようもない、陳腐な不倫妻ストーリー。
 本作が刊行された1957年では、相当スキャンダラスに受け取られたのだろうか?
 この本はベストセラーとなり、「よろめき」という言葉が流行ったというから、夫の浮気は「男の甲斐性」でも、妻の浮気は――「不倫」と言う表現は80年代以降である――世間的には許されない、マスメディアの格好の餌食になり得る、それゆえ話題沸騰のテーマであったのだろう。
 ソルティが十代の時分(70年代)、芸能ニュースを騒がせたゴシップの一つに、藤間紫の不倫騒動があった。彼女は、藤間勘十郎という立派な亭主がいて一男一女をなしているにもかかわらず、16歳年下の市川猿之助と関係を持ち、同棲するに至った。
 世間の藤間紫に対するバッシングの凄まじいことったらなかった。
 80年代になるとバブル景気とフェミニズム旋風の中、女性の性の解放が進んだ。  
 テレビでは『金曜日の妻たちへ』はじめ人妻不倫ドラマが大流行りした。そこでは、“不倫”とは名ばかりで、ホイホイと浮気する人妻たちに罪悪感や背徳感などほとんど感じられなかった。
 世間には、「不倫してこそ女は磨かれる」と言わんばかりのファッション感覚すら漂っていた。(バブル期トレンディドラマの人気男優だった石田純一の「不倫は文化だ」も当初は名言扱いだったはず)
 「美徳」も「よろめき」もすっかり死語になったのである。

 本書の解説で山田詠美も触れているが、令和の現在のほうがよっぽど人妻の不倫に対する世間の目は厳しい。
 不倫が発覚した女性有名人に対するバッシングのさまは、一周回って60~70年代に戻ったかのようである。
 CMを下ろされたり、ドラマを降板したり、芸能生命を絶たれかねない勢いである。
 もっとも、浮気した家庭持ちの男性有名人に対する目もずいぶんと厳しくなったので、その点では男女平等になったと言えるかもしれない。
 要は、性道徳に関する世間の目が硬化した(ように見える)のである。

 その原因や背景を考察するのは一筋縄ではいかない作業なので別の機会に譲るが、現代の性を巡る言論空間(特にSNS)の面白いと思う点を一つ上げると、旧統一教会を代表とするような保守的・父権主義的な価値観を持つ人のコメントと、セクシュアルライツ(性の人権)やフェミニズム(女性の権利)を訴える革新的・平等主義的な価値観をもつ人のコメントが、妙に一致するように見えることである。
 たとえば、前者の「純潔を守り、家庭を大切にせよ」という理念から発しられたコメントは、後者の「男の浮気やDVを批判し、女性と子供の権利を守る」という理念から発しられたコメントと、表面上は一致する。
 100字前後の短いコメントからは発言者の思想背景まで見えないので、「この人はどういう立場の、どういった所属の人だろう?」と頭をひねること度々である。

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 話がどんどん『美徳のよろめき』から逸れていく(笑)。
 本作、途中までは面白かった。
 主人公の節子と不倫相手の土屋とが“男女の関係”に至るまでが面白くて、そこから先は妙に理屈っぽさが勝って、「三島の悪いところが出ているなあ」という感がした。
 節子が、自らの恋の悩みを相談しに、酸いも甘いも知り尽くした年長の男女の一対を訪れる場面なんか、小説と言うより論文のような生硬さである。
 『美しい星』しかり、『音楽』しかり、『仮面の告白』しかり、『禁色』しかり、『豊饒の海』しかり、三島の長編小説は、後半になると質や勢いが落ちる傾向がある。(戯曲はこの限りでない)
 本作でも、心臓を鷲掴みされるような見事な比喩やレトリックは、ほぼ前半に集中していた。たとえば、
  • 節子の月経は毎月遅れ気味で、大そう長くつづいた。そのあいだには得体の知れぬ悲しみが来る。その期間はいわば真紅の喪である。(P.16)
  • 冬の明け方の白い空は石女を思わせた・・・・(P.40)
  • 美徳はあれほど人を孤独にするのに、不道徳は人を同胞のように仲良くさせる・・・(P.75)
  • どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属している、と節子は考えていた。(P.57)
 『美徳のよろめき』の節子は、あまりものを深く考えない、考えられない、状況に流されやすい、お人形さんのような女性である。(不倫相手の子供を孕む可能性を考えていないあたりが抜けている、というかキャラとしてのリアリティが薄弱。)
 それゆえに、一瞬の「よろめき」で事は済み、退屈な日常に復帰できた。
 思うに、若尾文子が演じてきた女性たちは、日常を打ち壊して、常識的世界を超えてしまう強さとしたたかさを秘めていた。
 節子は若尾文子の役ではなかった。


P.S. 現在、若尾文子映画祭が角川シネマ有楽町で開催中である。未見のものを何本か観たい。
  


おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損