1955年デンマーク
126分、白黒

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『奇跡』のポスター」

 カール・テオドア・ドライヤー(1889-1968)はデンマーク出身の映画監督で、知る人ぞ知る名匠。
 日本で知られている作品は、『裁かるるジャンヌ』(1928)、『吸血鬼』(1932)、『奇跡』の3本くらいと思うが、内容が難しいためか、名画座でも上映される機会が少ない。
 ソルティが過去に観ているとしたら、20代の高田馬場ACTシアターあたりと思うが、記憶にない。(当時は観た映画を逐一手帳にメモしていたのだが、その手帳数冊を破棄してしまった)
 同じ高田馬場の早稲田松竹で、ドライヤーの『奇跡』が、ロベルト・ロッセリーニ監督『神の道化師 フランチェスコ』と2本立てで掛かっているのを知って、観に行った。

 若い頃は2本立て・3三本立ての映画(料金は1本分)は大歓迎だったのだが、還暦を超えた今、映画を続けて観るのが結構つらい。
 座席に縛りつけられてスクリーンを観続けていると、目が疲れる、腰が痛くなる、頭がボーッとなって眠くなる。
 とくに、字幕を読まなければならない洋画や、内容が重たくて120分を超えるものは、1本が限度である。
 こんな日が来るとは思わなかった。
 『神の道化師』は12年前にDVD鑑賞しているので、今回は『奇跡』だけ観ればいいやと思ったのだが、『神の道化師』がデジタル・リマスター版と知って、つい欲を出して『神の道化師』の回から入場してしまった。
 たしかに、ソルティが昔観たDVD版よりはるかに映像がきれいで、格段見やすかった。

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『神の道化師、フランチェスコ』のポスター

 『奇跡』(原題 Ordet は「御言葉」の意)は、タイトルから想像がつく通り、宗教的な映画である。
 ある裕福な農業一家に訪れた悲劇と奇跡を描いた物語。
 「神への信仰と不信」という重苦しいテーマ、遅々として進まないストーリー、固定カメラを多用したスタイリッシュな映像が、イングマル・ベルイマン作品とよく似ている。
 『冬の光』、『第七の封印』と重なった。
 同じ北欧映画という点ももちろん大きい。 

 案の定、上映開始後15分あたりから眠気が生じた。
 セリフがなかなか頭に入って来ない。
 というか、目を開けているのがしんどくて、字幕を読むことができない。
 『神の道化師』は、フランチェスコはじめ修道僧たちのユーモラスなエピソード満載なうえに、スクリーンいっぱいに、僧衣姿の彼らが小鳥のようにばたばた動き回るアクション的面白さも手伝って、退屈しなかった。
 『奇跡』は、内容は重いし、登場人物の動きも少ないし、そもそも仏教徒のソルティにしてみれば「神への信仰」というテーマそのものが関心の低いものなので、集中力を保つのが難しい。
 しかも、映画の途中から、主人公一家の居間の柱時計の響き「チクタク、チクタク」が基底音として継続するので、それが催眠的効果を倍増する。
 眠気と闘うべきか、あきらめて心地よい惰眠を貪るべきか、ちょっとした葛藤におそわれた。
 若い頃は、自分が映画を見ている周辺の席でイビキをかいて寝ている中高年を見ると、後ろから座席を思いきり蹴ってやろうかと怒りにかられたものだが、因果はめぐる還暦にして・・・。

居眠りする男

 寝落ち一歩手前で、事件が起きた。
 一家の長男の嫁インガが、難産のため命の危機に陥ったのである。
 ここから事態は急転し、物語は緊迫する。
 さっと眠気が吹っ飛び、あとは完全に映画と一体化した。

 家長のモルテン、長男ミケル、三男アーナスは、インガの無事と出産の成功を祈る。
 神学の勉強のし過ぎで頭がおかしくなったと周囲に憐れまれている次男ヨハネスは、「神を信じれば奇跡は起こる」と家族に一心に祈ることをすすめる。
 が、だれも相手にしない。
 様子を見にやってきた町の新任の牧師は、ヨハネスの存在をはじめて知り、家族に向かって、「なぜ施設に入れないのか?」とさえ聞く。
 懸命な医師や看護師の手当てもむなしく、子供は死産し、インガは息を引き取る。
 悲しみに暮れる一家。
 夫ミケルは、柱時計の振り子を止める。
 「神を信じ祈れば、インガは蘇る」とヨハネスはなおも言うが、その言葉はついにモルテンの怒りを買う。
 その夜、ヨハネスは姿を消す。

 葬儀の日。
 インガを見送るため、喪服を着た多くの村人が集まっている。
 美しく装えられたインガが納棺される寸前、ヨハネスが帰って来た。
 インガの傍らに立ったヨハネスは、家族らを見回して、こう告げる。
 「この中にほんとうに信じる者が一人でもいれば、インガは生き返る」
 ムッとして立ち上がろうとする牧師を医師が押しとどめる。
 そこへ、インガとミケルの小さな娘がやってきて、ヨハネスに言う。
 「おじちゃん、お母さんを生き返らせて」
 「おじちゃんにできると思うかい?」
 「うん」
 「じゃあ、一緒に祈ろう」
 二人は手をつないで、祈り始める。
 ヨハネスの“御言葉”に奇跡が起きる。

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Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

 テーマはたしかに重いが、理解は難しくない。
 日夜十字架を前に祈り聖書を読み日曜日には教会に行く一見敬虔な人々も、人々に説教するのが上手な神父や牧師も、真の意味での信仰は持っていない。
 子供のような無垢な心を失くし、聖書に書かれている「奇跡」を信じていない、すなわち神の偉大な力を信じていないからだ。
 手を伸ばせば届くところに、神の御言葉を説く預言者(ヨハネス)が到来しているのに、彼を狂人と思い、邪険に扱い、その言葉を無視している。
 幼い娘だけが御言葉をそのまま信じていたのである。
 
イエスは言われた。
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、神の国に入ることはできない。自分を低くして、子供のようになる人が天国で一番偉いのである」
(「マタイによる福音書」18より)

 ヨハネスが姿を消すあたりからの映像が非常に美しく、写実を超える力で観る者に迫ってくる。
 それまではどちらかと言えば、映画というより演劇的なタッチが濃厚だった――原作はデンマークの国民的劇作家カイ・ムンクの戯曲『御言葉(オルデット)』――ものが、ここに来てまごうかたない「映画」に変貌する。
 構図や陰影やカットつなぎやキャメラの移動などによって生み出される映像そのものの力が、物語を凌駕し、なにかとんでもないことが “今ここ(高田馬場の早稲田松竹)” で起こっているような感覚を生じさせる。
 それが映画という芸術における美との邂逅の瞬間であり、いわば映画の「奇跡」である。
 映画を信じる者だけにそれは顕現する。
 
 既存の“物語”に囚われて、「今ここ」にある単純な真実を見逃す。
 この映画のテーマそのものが、映画という芸術の置かれ続けている受難的状況の比喩のように思われた。

早稲田松竹



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損