2025年日本
175分

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 吉田修一原作の話題沸騰の芸道映画。
 歌舞伎の世界を舞台に、芸に憑りつかれた男たちの生きざま・死にざまを描いている。
 似たようなテーマの溝口健二監督『残菊物語』(1939)、豊田四郎監督『地獄変』(1969)、ジョン・カサベテス監督『オープニング・ナイト』(1977)、陳凱歌監督『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993)、映画ではないが栗本薫の小説『絃の聖域』、そして読んだばかりの西木暉著『仏師成朝と運慶 猜疑の果てに』を想起した。
 芸の道を究めた人間は、だいたい最後は狂気や孤独に陥るらしい。
 芸の神様は嫉妬深くて、芸を志した人間が家族や友情といった世間的幸福を犠牲にしてはじめて、その気難しい顔を綻ばすのである。
 こうしたテーマになるといつも、マリア・カラスと山田五十鈴を思い出す。

 歌舞伎の世界の裏表が赤裸々に描かれ、『道成寺』、『藤娘』、『鷺娘』、『連獅子』、『曽根崎心中』など有名な演目が登場するので、歌舞伎ファンなら一瞬たりとも目が離せないと思う。
 歌舞伎に詳しくないソルティでさえ、3時間近くの上映時間を長いと感じることなく、最初から最後までスクリーンに釘付けになった。
 脚本(奥寺佐渡子)が巧みで、退屈させない。
 撮影(ソフィアン・エル・ファニ)が美しく、遠近(ロング、バスト、アップ)や切り返しショットが効果的に用いられ、ドラマに緩急をもたらす。
 『フラガール』、『怒り』、『悪人』などで知られる李相日(リ・サンイル)監督の演出は、壮大重厚にしてたっぷりな素材を、大きな陶器の平皿に手際よく盛りつけて、御馳走感はんぱない。(ソルティが年のせいか、若干盛りすぎを感じたが)
 ここ数年の日本映画では出色の出来栄え。
 大ヒットも頷ける。

 役者がみな素晴らしい。
 渡辺謙と横浜流星の「べらぼうコンビ」の安定感。
 吉沢亮の蔭のある美しさは印象的。女形姿も艶である。
 その子供時代を演じた黒川想矢が圧巻の存在感。『博多っ子純情』(1976)の光石研、『誰も知らない』(2004)の柳楽優弥、『共喰い』(2013)の菅田将暉を思わせる鮮烈な眼力である。
 年老いた女形の人間国宝を演じる田中泯は、舞踏家としての田中の持つイメージ、すなわち“踊りの怪物”が、そのままここで演じる役に重なって見える。適役というほかない。
 三浦友和の息子の三浦貴大が歌舞伎の興行主の役で出演している。杉村太蔵か石黒賢かと思った。父親と同じ“いぶし銀”の道を歩み始めたようだ。

 一等感心したのは、歌舞伎役者花井半二郎(渡辺謙)の妻を演じる寺島しのぶ。
 寺島が出てくるだけで、この作品にリアリティがもたらされる。
 主要な3人の役者、渡辺謙、吉沢亮、横浜流星は本来歌舞伎役者ではないので、どんなに頑張って演じても、いや頑張って演じれば演じるほど、テレビ&映画的なモードが滲み出てしまう。
 どうしたって歌舞伎モードが不足する。
 そこに、由緒ある歌舞伎一家の血を引く寺島が加わることで、一挙に歌舞伎モードが備わるのである。
 やっぱり、血はあらそえない。
 立ち方、座り方、着こなし、声の出し方、家族としてあるいは師匠として歌舞伎役者を見る眼差し・・・・。こうしたものは、演技ではなかなか身に付けられまい。
 寺島しのぶの存在が、この作品を支えていると言っても過言ではない。

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Antal BódiによるPixabayからの画像

 この映画の主たる時代背景は昭和である。
 昭和時代は、歌舞伎や能にしろ、日本舞踏や三味線にしろ、落語や茶道にしろ、伝統芸能の世界にあっては近現代的価値観の通用しない面が少なくなかった。
 たとえば、役者が妾や隠し子を持つのはあたりまえ、師匠が弟子を殴るのはあたりまえ、ヤクザが興行を仕切るのはあたりまえ、男子が世襲するのはあたりまえ・・・・・。
 大衆もまた、「特殊な世界のことだから」と大目に見るのが普通であった。
 「芸のためなら女房も泣かす」という歌(作詞/たかたかし、作曲/岡千秋)がヒットしたのは昭和58年(1983)のことである。
 が、昨今の世界的なSDGsや人権やコンプライアンス遵守の風潮の中で、伝統芸能の世界も影響を受けないわけにはいかないだろう。
 その意味で、この映画は“古き悪しき?”時代の証言といった側面もある。
 




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損