テキスト科目第5弾は書誌学を選んだ。
 テキストは、廣庭基介・長友千代治共著『日本書誌学を学ぶ人のために』(世界思想社、1998年刊)である。

日本書誌学を学ぶ人の為に

 書誌学とは耳慣れない言葉であるが、読んで字の通り、「書物について誌す学問」、英語では bibliography という。
 
「書誌学」は図書・書物・本など、特定の文字資料を歴史的に評価・類別して、その資料のもつ意義と位置付けを行うという側面をもっている。

一般的に「図書・書物について記述する」といえば、その書物に記載されている内容に関して論じることと理解する人があるかもしれないけれど、「書誌学」のそれは、形式的な事項に関して、わかりやすくいえば誤字・脱字・乱丁・落丁などの有無、形態的な事項に関して他の図書・書物との異同などについて記述するのである。したがって、その書物のもつ内容的文学性、心的作用、他の資料に与えるそれらの影響などについて論じることはなく、むしろその解明のための基礎となる補助学なのである。つまり「書誌学」では、当該図書を図書という物質として論じるのである。
(上記テキストより、以下同)

 本を内容的価値に基づいて研究するのが文学だとしたら、物質的価値に基づいて研究するのが書誌学、といったところか。
 その意味で、極めてマニアックな(オタク的な)学問と言えよう。
 書誌学者にとって、本は神様のようなものだ。 

 ソルティは、常になんらかの本を読んでいないと気分が落ち着かなくなる程度には本好きである。一冊の本を読み終わって、次の本に手をつけるまで丸二日空くことはない。
 が、物質としての本を大切に扱っているかと言えば、NOである。
 さすがに、図書館で借りた本は折ったり破いたり汚したりしないよう気をつけているけれど、自分で買った本は、結構ぞんざいに扱っている。
 気になる箇所があれば、付箋を付けたり、マーカーを引いたり、折れ目をつけたりする。
 煎餅やポテチをお供に、お茶やコーヒーやアルコールを飲みながらページをめくったりして、たまに悲惨な状況を生む。(特に赤ワインは取り返しがつかない)
 横になって読んでいるうちに寝落ちして、自分の体重で折り目を付けたり、帯を破壊したりすることもよくある。
 町の書店やブックオフで購入した廉価本ばかりということも大きいが、そもそも本を読むのは“異世界への旅”(あるいは現実逃避によるストレス解消)という面があるので、そこで「汚したらいけない」「折ったらいけない」「書き込みしたらいけない」と、いちいち気を使うのは嫌なんである。
 大切なのは、本の中味であって、形態ではない。 
 つくづく、ソルティは書誌学者には向いていないなあ~。
 ちなみに、これまで買った一番高かった一冊は、スミソニアン協会監修『地球博物学大図鑑』(東京書籍、9500円+税)である。
 友人とZOOM会話する際、ノートパソコンの高さを調節するのに重宝している。

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もちろん動植物を調べるのにも使っている

 一方、ソルティは若い頃に本づくりの仕事をしていた。
 社会人としての最初の就職先が出版社だった。
 そこで、企画から刊行までの本づくりを学び、編集のノウハウを覚え、締め切り間際には印刷所に出向して校正刷りに朱入れする、なんて日々を送っていた。
 当時は活版印刷が役目を終え、写植(写真植字)全盛だった。
 編集部配属と共にもらった(株)写研の見本帳や校正マニュアルを脇に置いて、やれ明朝だゴチックだローマンだ、9ポイントだ10ポイントだ、行間詰めだ字間開けだ、小口だ奥付だ見開きだ、校正用語(ゲラ・突き合せ・イキ・ひらく・トルツメ・ノンブル・天地・責了e.t.c.)はじめ、いろんな専門用語を振り回して、業界人ぶっていたのである。
 IT革命が日本に到来する前の90年代初頭に退職したので、その後の印刷事情についてはよく知らない。
 が、現代はパソコンのモニター上ですべて編集し、版を起こすことなく、データを直接印刷機に送る、いわゆるDTP(Desktop publishing)が主流なのだろう。
 いまの若い編集者にシャショク(写植)と言っても、社員食堂の略と思うのがオチかもしれない。

 そんなわけで、本の歴史、印刷の歴史、本の各部分の名称などを説明している書誌学のテキストを読むと、社会人ビギナーの頃がしきりと思い浮かぶ。
 生意気で、世間知らずで、徹底した個人主義の“新人類”だったソルティ。
 周囲にいろいろ迷惑かけたり、不快な思いをさせたり、あきれられたり、見放されたり、忍耐を強いたり・・・・。
 売り手市場のバブル日本の浮かれモードもまた、ソルティを不遜にした一因であった。 
 昔の自分が、いまのソルティの職場に入ってきたら、きっと殴り倒したくなることだろう(笑)

 それにつけても思い返すに、会社に入って一番嫌だったことは、労働組合の勧誘であった。
 同志と共に「権利を求めて、あるいは理不尽を糺すために」闘うというのが、なんだかピンと来なかったこともあるが、理解できなかったのは一つの会社に組合が二つあって反目し合っていた点。
 つまり、経営陣に反抗的な赤色系労組と、協調路線(迎合路線)をとる新労組である。出世するのは後者の社員に限られていた。
 おおむね40代以上の年輩世代は前者、若い世代は後者、社員がほぼ真っ二つに分かれて、仕事以外の付き合いは同じ組合に属する者同士に限られていた。
 ソルティの配属された編集部は、赤色系組合員の巣窟であった。
 ノンポリつまり政治に無関心だったソルティは、どちらの組合とも距離を置きたかったし、派閥争いに巻き込まれたくなかった。
 それぞれの組合幹部からしきりに勧誘され、選択を迫られるのには、正直閉口した。
 思うに、現実社会の複雑さを“卑俗”と退けて、逃避したかったのだろう。
 傲慢な気もする一方、現在仏教徒であるソルティの出発点を見る思いもする。
 書誌学を学ぶことが、自分を振り返ることになるとは思わなんだ。

大日寺近くの城
大日の 山の上なる 廃城は バブルの夢の 名残とぞ聞く
(四国第28番札所・大日寺近くで見たお城)

「本」という言葉は、もとは「物の本、すなわち物事の根本を記した書物」の意味で、昔は、小説や戯曲、浄瑠璃などの娯楽的の書物は「本」とは言わず、「草紙」と言った。中国最古の字書『説文解字』における「本」の解説は「木の下に根を表す一を加えたもので、草木の根柢」とあって、はじめは「根」の意味であった。それから拡大解釈して事物の根本、始原を表すようになった。

 本を読むとは、「物事の根本」を知ることなのだ。