2008年島影社
運慶・快慶と言えば、鎌倉時代の2大仏師、どころか日本美術史に燦然と輝く2大彫刻家。
東大寺南大門の左右に向かい合ってそびえ立つ金剛力士像の圧倒的迫力に、度肝を抜かれ、呆然と立ちすくんだ覚えのある人は多いだろう。
かつては、阿形像(正面向かって左)が快慶、吽形像(右)が運慶の作と言われていたが、平成の解体修理の際に像内で発見された文書から、「阿形は運慶と快慶、吽形は定覚と湛慶」が担当したことが判明した。
ただ、それをそのまま真実と受け取っていいかどうかは微妙なところである。
上記4人の仏師としての力量や経験を鑑みたとき、運慶と快慶は他の2人より抜きん出ている。
だから、左右の像の出来栄えを均等にするためには、たとえば、「阿形=快慶+定覚、吽形=運慶+湛慶」と分担するのが道理だろう。ちなみに、定覚は運慶の弟、湛慶は運慶の長男である。
また、康慶を師とする同じ慶派の一員であるとはいえ、運慶と快慶の作風はかなり異なる。
両人ともに慶派ならではの写実性や緊張感は備えながらも、
- 運慶=力強い、動的、立体的、人間味あふれる、自己主張的、伝統破壊的
- 快慶=美しい、静的、絵画的、脱俗的、没我的、伝統尊重的
といった違いがある。
康慶の弟子として修行中の若いうちならともかく、それぞれが一人前の仏師として自立してからは、これだけ作風の異なる二人が一つの像を共作するのはかなり無理がある。
いま南大門の金剛力士像を見ると、阿形には快慶の作風が、吽形には運慶の作風が把握される。文書発見前の人々が然るべく思ったのも当然至極なのである。
となると、一体、この内部文書が意味する分担の不可解は、何を意味するのだろう?
俗に両雄並び立たずと言うが、同じひとつの工房の中で、運慶と快慶はどういう関係にあったのだろう?
そこには、仲間意識だけでなく、強いライバル意識や嫉妬や反目はあったのだろうか?
運慶は快慶という男とその作品を、快慶は運慶という男とその作品を、どう思い、どう評価していたのだろう?
仏像史を学ぶ者なら誰でも一度は抱く疑問である。
吽形(定覚・湛慶作)
これに関してソルティが興味深いと思うのは、運慶の長男・湛慶の作風である。
若いうちは祖父・康慶や父・運慶に付いて弟たちや工房仲間と一緒に仕事をしていたので、湛慶独自の作風を指摘することはできない。
建仁3年(1203)南大門の金剛力士像に関わった時点で30才、仏師としてはまだ駆け出しだ。
朝廷から仏師に与えられる最高賞である法印を得たのは40才、ここでおそらく慶派棟梁の地位を運慶から引き継いだのであろう。このあと運慶は鎌倉関係の仕事を専らとしている。
そして、運慶が亡くなったのが貞応2年(1223)、湛慶50才の時である。
湛慶の作品が独自性を発揮するのはここからである。
京都・西園寺の阿弥陀如来像、高知・雪蹊寺の毘沙門天像、京都・高山寺の白光神・善妙神像、そして湛慶の代表作である京都・蓮華王院本堂(三十三間堂)の千手観音菩薩坐像と続く。
これらの作品を見て感じるのは、慶派ならではの写実性とともに、造形の絵画的美しさ、脱俗性、伝統尊重の趣である。
すなわち、運慶よりも快慶に近い。
湛慶は、高山寺の明恵上人に私淑し宗教的影響を受けたと言われる。そこもまた、南都焼打ち後の東大寺復興に力を尽くした重源上人と生涯にわたって深い親交をもち、自らの作品に「アン(梵字)阿弥陀仏」と銘記した快慶に似ている。
つまり、湛慶は、父・運慶よりもそのライバルである快慶に惹かれ、快慶の作風をこそ模範としたいと思ったのでないか、と想像(妄想?)が働くのである。
同じ業界で活動する父子の間にはよくある話で、偉大で厳しく近寄りがたい父親よりも、あたたかく見守ってくれる親戚の叔父さんと気が合う。たとえてみれば、長嶋一茂が、父親の長嶋茂雄よりも、“ON”と並び称された王貞治に親しみを感じ、なにかと相談しやすかった――みたいな感じか。(実際はどうか知りません。あくまで比喩です)
京都・六波羅蜜寺にある運慶と湛慶の肖像彫刻(前掲表紙写真)を見ても、自由奔放でいかにも天才肌の運慶の表情にくらべ、湛慶の表情は生真面目で重苦しい。
そんなわけでソルティは、運慶・快慶よりも、天才のせがれ+工房の跡継ぎとして重圧を背負った湛慶に関心を持っていた。湛慶を主人公とした小説を書いたら面白いだろうなあ、と。
本作はそこを逆手にとって、湛慶を主人公に設定しながら、湛慶から見た運慶と快慶を描いている。
同じ工房で2人の傍らで日夜過ごしながら、両人の人柄や仕事ぶりや作風を比較できる目を持つのは、2人の師である康慶か、湛慶くらいであろう。
青年湛慶を主人公にすれば、湛慶自身の仏師としての、あるいは人としての成長も描き出せる。当然、作中随所に出てくる仏像についても、湛慶の目を通した的確な評価がなし得る。
秀逸な設定である。
西木暉を読むのは『仏師成朝と運慶』に次いで2冊目。
綿密な取材としっかりした構成と抑制の効いた文章は、ここでも確認できる。
というか、本作は物語時間的には『仏師成朝と運慶』の続編になるものの、執筆順序では先なのである。
ソルティは『仏師成朝と運慶』の感想で、「主人公の成朝があまりにみじめで忍びがたいので、せめて最後はカッコつけてあげたら云々」と書いたけれど、すでに本作において、成朝は障害を追った要介護老人として登場している。
成朝の最期は決まっていたのである。
運慶はともかく、快慶については分かっていないことが多い。
生年も出自も康慶に弟子入りする経緯も没年も、不明である。
家族がいたのかどうか、結婚したかどうか、謎に包まれている。
名門慶派の跡継ぎとして小さい頃からエリート教育を施され、周囲から支えられ、(分かっているだけでも)6人の男児と1人の娘に恵まれ、仏師として最高位の法印を獲得した運慶。
おのれの腕と阿弥陀信仰だけを頼りに世渡りし、最後は運慶や湛慶より2段階低い法橋の地位で終わった快慶。
対照的な境遇や人柄や生き方が描き出されている。
両人の作風は、まさにそれぞれの境遇や人柄や生き方の反映なのである。
『仏師成朝と運慶』同様に、西木は、史実に反しない範囲での大胆な仮説を展開している。
たとえば、
- 快慶は地方の小豪族の嫡男であったが、家督をめぐる争いから父母を失い孤児になった。
- その後、醍醐寺に預けられて稚児として生活した。
- 新しい仏像表現にこだわる運慶が、父・康慶に破門され、しばらく東国を放浪していた。
- 肖像彫刻の傑作である奈良・興福寺の維摩居士坐像をつくった定慶は、運慶の実子であった。
- 東大寺南大門の金剛力士像は、最初は正面(参道)を向くように造られた。
- 運慶の弟・定覚は、運慶から非情な仕打ちを受けて、失意のあまり自殺した。
「なるほど、そういう可能性もあったか」と、西木の奔放な想像力に感心した。
それも単なる思いつきではなく、時代背景と人間心理に見合った仮説、すなわち鎌倉初期の不安定な社会・政治状況中で翻弄されながら生きる人間たちの、様々な感情のぶつかり合いの結果として生じたものとして、不自然でない仮説となっている。
冒頭の金剛力士像の内部文書の謎の解明も、「なるほど」と首肯できるものであった。
芸術と宗教の相克、革新と伝統の相克、政治と文化の相克、個人と集団の相克、親であることと師であることの相克、さまざまなテーマを盛り込みながら、破綻なくまとめあげた著者の力量に感服した。
どうして、これほどの小説家が埋もれているのだろうと不思議に思ったが、考えて見ると、本作を面白く読めたのは、ソルティが奈良大学通信教育学部に入学して「日本仏像史」を勉強したからである。
仏像の種類、仏像の様式の変遷、仏師の流れ、仏像制作の基本(たとえば一木造 or 寄木造、玉眼 or 彫眼といったような)、運慶と快慶の作風の違いなどについて、ある程度、調べたからである。
そうでなければ、本作は専門的すぎて読めなかったと思う。
一般読者には難しい内容なのである。
勉強することで読書の範囲は広がる。
「面白い」が拡大する。
好奇心ってのは、学ぶことにより生じてくるものなのだと、つくづく思う。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損



