1995年平凡社

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 これが問題の書 (*゚▽゚*) である。
 この本の刊行がきっかけとなって、美術史学会や日本史学会はもちろんのこと、マスコミや美術愛好家や歴史マニアを巻き込んだ「神護寺三像論争」が持ち上がったのである。
 ソルティは全然知らなかった。
 当時は仙台にいて、テレビも新聞もまったく見ない生活を送っていたし、そもそも美術や歴史にさほど関心がなかった。
 京都・神護寺にある源頼朝の肖像画――学生時代の歴史教科書に載っていて、クラス男子5人1人がいたずら書きしていたもの――が、実は足利直義(ただよし)らしいと知ったのは、つい最近である。
 関心がないと、たとえ目の前にあっても、情報は入って来ないものである。
 まあ、何百年も前の肖像画のモデルが、源頼朝だろうが、足利直義だろうが、北条実時だろうが、志村けんだろうが、社会生活を送るのになんら関係ないってのが、大方の社会人の意識であろう。
 研究者がつくる学界の社会隔絶性ってのは、社会学の研究テーマの一つになりそうだ。

 しかし、研究者でない一介のミステリーマニアにとっても、この謎は十分興味をそそる。
 著者の米倉が、通説に疑問をもち、いろいろな角度から調べ上げ、新たな文書の発見に光明を見出し、ついに満を持して新説を打ち出す過程が、あたかも、警察からも世間からも殺人犯と思われていた容疑者が、名探偵の丹念な調査と卓抜な推理、新事実の発見によって嫌疑不十分となり、ついには真犯人指名とトリックの解明によって無実が証明される――そんな本格推理小説のプロットのようで、面白く読んだ。
 問題の肖像画を含め、たくさんの図版が掲載されていて、読者が自分の目で証拠の品々を確かめられるのも親切である。

 神護寺三像というのは、源頼朝・平重盛・藤原光能(みつよし)と伝えられてきた、3点の大きな(約143cm×112cm)カラー肖像画のこと。
 絵自体には作者名もモデル名も描かれた日付も記されていないので、時代が下るにしたがい、絵のモデルが誰なのか不明になっていった。
 神護寺が上記3名をモデルと比定したわけは、南北朝時代(14世紀中頃)に書かれた『神護寺略記』に、神護寺の仙洞院(現存せず)に源頼朝・平重盛・藤原光能・平業房・後白河院の肖像画があり、それは藤原隆信が描いた、という記事が載っているからである。
 そこで神護寺は、前者3人の肖像画と比定し、平業房と後白河院のそれは無くなったと判断したのである。藤原隆信(1142-1205)が作者ならば、制作年代は鎌倉時代初期である。
 以後、これが学界においても通説となった。

神護寺金堂
神護寺金堂

 昭和になって、この通説に疑問を投じる研究者が現れた。
 美術史的観点から、また服飾史的観点から、さらには肖像が描かれている絹のサイズに着目し、肖像が描かれた時代はもっと下るのではないか、鎌倉末期以降なのではないか、という見解が出された。
 しかし、通説をひっくり返すほどの確証もなく、学会と鎌倉殿の権威はビクともしなかった。

 米倉迪夫が新説を堂々と打ち出したきっかけは、新たな歴史文書の発見にある。
 それが、安永4年(1345)4月23日に書かれた『足利直義願文』で、米倉は東京大学史料編纂所と東山御文庫(京都御所にある皇室の文庫)にその写しを見つけたのである。
 そこには、足利尊氏の弟である直義が、阿含経とともに兄・尊氏と自分の肖像画を縁ある神護寺に奉納する旨、書かれていた。画家の名はなかった。
 これにより、米倉は肖像画のモデルを次のように比定し直した。

 源頼朝     ⇒ 足利 直義
 平重盛     ⇒ 足利 尊氏
 藤原光能 ⇒ 足利 義詮(よしあきら)

 もちろん、制作年代は14世紀半ば。通説より100年以上もあとになる。

 そうして、神護寺三像をめぐる論争が巻き起こった。
 その後の経過に興味ある方は、ウィキペディア神護寺三像をお読みいただければと思うが、令和の日本史教科書から神護寺の源頼朝画像が撤退している現状からして、米倉説が定着しつつあるようだ。
 一方、肝心の神護寺は、公式ホームページの記載からすると、源頼朝像であるという姿勢を崩していない。

 ひとつの謎の解明は、新たな謎を生む。
 本書を読んでソルティが疑問を抱かざるを得なかったのは、以下の点である。
  1. 足利直義願文の原本はどこにあるのか?
    ⇒順当に考えれば神護寺だが、神護寺のホームページの寺宝紹介にはその記載がない。神護寺は文書を紛失してしまったのか? この足利願文が存在することをまったく知らなかったのか?
  2. 神護寺の思惑はいかに?
    ⇒本書のあとがきには、「神護寺御住職谷内乾岳師にはひとかたならぬお世話になった」という米倉による謝辞が載っている。肖像画の図版掲載など、神護寺の協力なしにはできないことである。谷内乾岳師(1939-2004)は、米倉説の中味を知った上で研究協力されたのだろうか? 現在の神護寺(住職は乾岳師の息子の弘照師)のスタンスから察するに、「米倉に裏切られた!」と思っても無理ない状況に思えるが・・・。
  3. 藤原隆信が描いた本当の源頼朝像および他の4名の肖像画はどこにあるのか?
    ⇒ソルティが東京国立博物館『神護寺展』で観た後白河法皇の肖像は、手元にある作品リストによれば、京都・妙法院所蔵の鎌倉時代(13世紀)のものであった。これと、神護寺に納められた後白河法皇の肖像は関係あるのか?
 ソルティの頭の中にある源頼朝は、神護寺のそれではなく、『草、燃える』の石坂浩二であり、『鎌倉殿の13人』の大泉洋である。NHK大河ドラマの影響のほうが強い。
 歴史教科書の画像は、いたずら書きしてしまったせいか、あまり印象に残ってなかった。(ソルティのことだから、おそらく女装化させたのだろう)

お女装大師
秩父の某寺にあるお女装大師



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損