1979年新潮社
1986年文庫化
昭和25年(1950)7月2日に起こった金閣寺炎上に関してソルティが知っているのは、三島由紀夫の小説『金閣寺』と、それを映画化した市川崑監督×市川雷蔵主演『炎上』から得た情報のみであり、放火犯である林養賢の実際の姿がどんなものだったか、正味のところ動機は何だったのか、よく知らなかった。
本書は、水上勉による30年近くにわたる関係者への取材、警察での養賢の供述調書、裁判に提出された精神鑑定書、京都地方裁判所の書いた判決文、そして獄中で書かれた養賢の手紙などをもとに、真実の犯人像に迫ろうとしている。
小説というよりノンフィクションに近い。
芸術性や知名度は三島の『金閣寺』には及ばないけれど、実際の事件の全容を知りたいのであれば、本書に如くはなかろう。
事実、三島や市川の作品とは異なるところが多かった。
たとえば、
- 主人公の最期・・・三島作品では、主人公は放火した後、裏山に登り、「生きようと思った」の述懐で終わる。市川作品では、護送されている最中、列車から飛び降りて自殺する。どちらも反省の弁はなかった。
実際の養賢は、刑期を終えた後、結核で京都府内の病院に入院、そこで病死した(享年27歳)。師僧である村上慈海住職宛てに、幾度も謝罪と反省の手紙を綴っていた。 - 悪友の存在・・・主人公の行為を後押しするメフィストフェレス的存在としての悪友(三島作品における柏木、市川作品における戸刈)は、現実には登場しない。
- 金閣寺住職の性格・・・これは市川作品で住職を演じた二代目中村鴈治郎の印象がたいへん強い。悟りすました禅僧の顔の裏で、美食を追い求め、祇園で芸者遊びする俗物。(ただし、市川作品では「驟閣寺」と名を変えている) 実際の村上慈海住職は、大人しい性格の倹約家で、女遊びをしない人だった。
- 放火の動機・・・「美に対する執着と憎悪」といった抽象的でよくわからない三島作品の動機を、市川は、「どもりであることの劣等感と社会の腐敗に対する憤り」といったものに変更していた。本書では、以下のような動機が水上によって推察されている。
私は金閣寺を見ていて僧になることがいやになって了った。将来の僧生活に絶望感をもつようになった。生来の吃音もある。雲水になってもうまくゆかぬだろう。といって田舎へ帰るにしても、村八分で西徳寺を追い出された母のいない寺は臨海寺の和尚が差配している。そんな所へは帰る気はない。還俗して生きてゆく自信ももちろんない。とするなら、いっそ金閣寺の象徴でもあり、金づるにもなっている舎利殿を焼いてしまったら気持いいだろう。あんなものがなくなれば、師匠も、禅僧としてのたてまえ生活と金銭欲のはざまで苦しむこともないだろう。あたりまえの禅僧にもどれるだろう。皆の目をさますためには自分さえ死ねばいい。死んで、金閣を焼いて、あの男は、大きなことをやったな、といわれたい。
三島や市川が犯人に与えた高邁な動機に比べると、卑俗にして平凡である。
が、誰にでもわかりやすい、等身大の庶民感覚がある。
水上は、養賢と郷里が近く、土地の気風をよく知っていた。
子供の頃、禅寺に入れられ修行した経験を持ち、宗門の内情にも通じていた。
養賢が金閣寺に入った時は、水上はすでに還俗して郷里で教員をしていたが、2人には共通の知人が多かった。
そして、水上自身、金閣寺に入ったばかりの養賢と遭遇していた。
さらには、水上勉の生家は乞食谷といわれる辺鄙な場所にあり、父親は棺桶づくりをしていた。
貧困はもとより、差別された体験もあったろう。
幼い頃より、どもりのため周囲にからかわれた養賢の抱いた劣等感や怒りを、自分のことのように感じることができたろう。
貧困はもとより、差別された体験もあったろう。
幼い頃より、どもりのため周囲にからかわれた養賢の抱いた劣等感や怒りを、自分のことのように感じることができたろう。
ある意味、水上勉ほど、養賢を理解し、共感できる人間はいなかったかもしれない。
本書が、犯人を非難し責め立てる検事的立場で書かれたものでなく、事実を淡々と冷静に追った第三者的立場で書かれたものでもなく、犯人の置かれていた閉塞状況に同情の眼差しを寄せる弁護士的立場で書かれているのは、水上と養賢の距離の近さに依っている。
本書が、犯人を非難し責め立てる検事的立場で書かれたものでなく、事実を淡々と冷静に追った第三者的立場で書かれたものでもなく、犯人の置かれていた閉塞状況に同情の眼差しを寄せる弁護士的立場で書かれているのは、水上と養賢の距離の近さに依っている。
ゆえに、読後感は、三島作品とも市川作品とも決定的に異なる。
やりきれないもの悲しさとともに、日本海に面した寒村の淋しい風景が眼前に浮かぶ。
ソルティは、本書に書かれた林養賢の子供時代、とくに母親との関係を読んで、2008年6月8日に起きた秋葉原通り魔事件の犯人・加藤智大(ともひろ)を想起せずにはいられなかった。
どちらの母親も、ワンマンタイプで、上昇志向が強く、息子に過大な期待を寄せ、スパルタ教育を施した。養賢は、どもりを治すよう訓練を強いられたという。
養賢も智大も、ありのままを無条件に肯定してくれる母性に恵まれなかったのではなかろうか。
「愛されるためには努力して結果を出さなければならない」という幼少の頃から刷り込まれた図式が、ちょっとしたきっかけで崩れるとき、バランスを失った者の心は、逆ベクトルに大きく揺れるのではあるまいか。
「わざと嫌われる行為をして復讐してやる!」
もっとも、二つの事件には大きな違いがある。
加藤智大は7人を殺害し、10人に重軽傷を負わせた重罪人である。
死刑宣告を受け、令和4年(2022)東京拘置所で処刑された(享年39歳)。
一方、養賢がやったのは、無人と分かっている建物を燃やしただけである。
殺意はまったくなかった。
懲役7年の判決を受け、模範囚であったので恩赦により5年弱で釈放された。
養賢が、「国賊」「精神異常者」「英雄気取りの性格破綻者」「完全な変質者」「極悪人」などとマスコミに書き立てられたのも、贖罪意識と絶望から母親が列車から飛び降りて自殺したのも、焼いた建物が国宝・金閣寺だったからである。
日本国民の多くが誇りとする宝を破壊したことが、国民の怒りを買った。
つまり、共同体への反逆者とみなされたのである。
(前年にあった法隆寺金堂の壁画焼失のショックも重ね合わされたに違いない)
金閣寺舎利殿は、言うまでもなく、応永4年(1397)足利義満によって建てられた別荘であり、応仁の乱の戦火をからくも免れた国宝であった。
明治維新の廃仏毀釈の波や、太平洋戦争時の米軍による空襲や原爆投下をも免れた、運のいい建造物であった。
廃仏毀釈や太平洋戦争によって、どれだけ多くの貴重な文化遺産が消失したことか!
おそらく、加藤智大の名が、同じような殺傷事件のリストに埋もれて、いつの日か人々の記憶から消えていっても、林養賢の名が忘れられることはないだろう。
金閣寺ある限り。

P.S. 金閣寺舎利殿には、足利義満の木製肖像、運慶作の観音菩薩像、春日仏師作の地蔵尊像なども置かれていたという。運慶
無常、無常・・・・。
無常、無常・・・・。おすすめ度 :★★★★
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★ 読み損、観て損、聴き損


