日時: 2025年9月23日(火)13時30分~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目:
- ドビュッシー: 「海」 管弦楽のための3つの交響的描画
- マーラー : 交響曲第1番
- アンコール マーラー:交響的楽章「花の章」
指揮: 山上 紘生
ここ数日、急に涼しくなって快適至極。
――のはずなのだが、年のせいか、急激な気候の変化に体が追っつかず、なんだか疲れて仕方ない。
――のはずなのだが、年のせいか、急激な気候の変化に体が追っつかず、なんだか疲れて仕方ない。
いくら寝ても寝足りない気がする。
今日も、錦糸町まで1時間半かけて行くか行かないか、家を出る直前まで迷っていた。
10年前(50代前半)ならあり得なかった。
それでもやっぱり、山上紘生の振るマーラーが気になって、列車に乗った。
チケットを買ってなかったので、当日券で空いてる席(全指定席1000円)をとったら、2階席の前から5列目中央という、舞台を見るには最高の位置だった。
もっともソルティ、コンサート中はほとんど目をつぶっているのだが。
前プロはドビュッシーによる海のスケッチ。
夜明けの海、昼間の海、波の戯れ、嵐の到来、荒れ狂う海原・・・。
120年前の初演時に出版された総譜の表紙には、ドビュッシーが選んだ葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』が使われたという(上記チラシ参照)。
フランスに浮世絵ブームが湧いた頃だったのだ。
それこそ波にもまれる小舟のごとく、全身の力を抜いて、音にまかせて浮遊して聴いていた。
おかげで、エナジー回復した。
マーラー第1番の第1楽章もまた、夜明けのスケッチから始まる。
黎明の高原は、夜を通して空気を震わせていた「ラ音」の不安な響きに覆われている。
その硬い空気がだんだんと和らいで、空に明るさが増してくる。
カッコウが鳴いて日が昇る。
さわやかな高原の朝。
にぎやかな一日の始まり。
ラジオ体操でもしようか。
それはまた、人生の黎明期の比喩でもある。
不分明な茫漠とした「ラ音」の世界から、この世にやってきたひとつの魂が、赤子として声を上げる。
周囲はカッコウの声のごとく喜びをもって歓迎してくれる。
無垢のうちに過ごす楽しい幼年期。
希望とよろこびに満ちた人生が始まる予感。
しかるに、現実はつねに期待を裏切る。
苦悩と失望と危険に満ちた人生が口を開けて待っている。
人生は陽だけではなく、陰もある。
この第1楽章には、交響曲第1番全体のエッセンスが凝縮されているだけでなく、ここから交響曲第10番まで続くマーラーの音楽全体を包含するテーマが打ち出されている。
つまり、陽と陰とのせめぎ合い、躁と鬱とのたたかい、生きることをポジティヴにとらえるかネガティヴにとらえるか、といった両極性である。
自然の美しさや子供の無邪気な声や愛する人との触れ合いは、人生をポジティヴなものに見せてくれる。
が、それらはすべて一時的で不安定なもので、早晩失われる運命にある。
その不条理の理由を神に問うも、神は答えてくれない。
山上の指揮は、この第1楽章において優れていた。
とくに、陽から陰に移る刹那の微妙な間合い、陽の背後から陰がせり出すなんとも形容のし難い不吉なタッチに、ゾッとするものがあった。
ソルティがひとりのウツ病経験者であるだけに。
ソルティがひとりのウツ病経験者であるだけに。
第2、3楽章は、ひとつひとつの楽器の特色(音色)を生かしつつ手堅くまとめ、この曲の面白さを開示し伝えるのに成功していた。
やはり、第4楽章は「手に余る」という感を持った。
それはひとえに山上やフライハイトオケの技量不足ではなく、他の誰がこの曲を振っても第4楽章をまとめるのは難しいのではないかと思う。
マーラーは、激しい陰と陽のせめぎ合いの果てに、収拾がつかなくなり、最後に“定石通り”陰から陽に転換して凱歌を上げるのだが、どうも無理くり感が強い。
鬱病患者が投薬によって躁になりました、みたいな不自然さがある。
マーラーの生きた時代はすでに、ベートーヴェン先輩のように、最後の助けとして神を持ってくることができなかったのである。
終演後、「ブラボー」が飛び交っていた。
山上を評価する人が増えているのだろう。
これからの山上マーラーに期待したい。

