1959年新潮社
1964年文庫化

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 この小説をこれまで読んでいなかったのは、「三島の失敗作」という評判を聞いていたからだ。
 そのうえに文庫で600頁を超える厚さ。
 いつかは読もうと思いつつ、数十年が経ってしまった。

 時は昭和30年前後。
 戦後10年経って、焼け跡が急速に失われつつある頃。
 名門の資産家の令嬢である鏡子の家に集まる4人の青年の数年間を、2部構成で描いている。
 世界の崩壊を信じる貿易会社エリート社員の清一郎
 有望なボクシングの選手である俊吉
 新進の天才画家の夏雄
 美貌の無名役者である
 4人はともに遊ぶことはあれど、深く干渉しあうことはなく、互いの苦境も遠くから見守る間柄。
 鏡子もまた、集う場所を提供し4人の聞き役に徹するも、余計な口出しせず、超然としている。
 言ってみれば、4人は鏡子をかすがいにして繋がっている4枚の扉のようなものである。

 第1部はたしかにつまらない。
 失敗作という評価も仕方ないと思える。
 5人の主人公の日常が同時並行にたんたんと描かれ、とりたてて言うほどの事件も起こらない。
 「たんたんと」ではあるが、そこは三島由紀夫。いつもながらの過剰に装飾的で小難しい心理分析と、皮相な人間観察と社会批評が紙面を蔽う。
 それがわずらわしい。
 「なんでこんな退屈な小説書いたんだ?」
 読者は忍耐力を試される。

 第2部に入って、俄然、面白くなる。
 5人の主人公はあいかわらず深く関係することなく物語は進行する。が、一人一人に事件が持ち上がり、人生行路が大きく変わっていく。
 清一郎は重役の娘と結婚し、アメリカ赴任で出世の階段を昇る。
 俊吉はチャンピオンとなった夜に暴漢に襲われ、選手生命を絶たれ、右翼活動に身を転じる。
 夏雄は神秘主義にかぶれて一時絵筆を断つも、芸術家として新たな視点を獲得し、メキシコに向かう。
 収はボディビルに目覚め、筋肉美を極めた挙句、サラ金の女社長に飼われて心中をはかる。
 そして鏡子は、別居していた夫とよりを戻す。親子3人で暮らすことになり、鏡子の家は役目を終える。

 5人の行路は最後まで交わらない。
 発表当時に評価が低かった主たる理由は、「人物同士間の絡み合いやドラマがない」という点にあった。
 たとえば、日本文学研究者として名高いエドワード・G・サイデンステッカーは、人物たちが「空虚な群像に終わっている」とし、「作中人物たちのシニシズムと暴力は、青っぽく空虚なもの」に見えると評した。
 評は当たっていなくもない。
 長編小説というものに、トルストイやヴィクトル・ユーゴーやチャールズ・ディケンズのような「壮大で濃密な人間劇の展開」を期待する人にとっては、5つの人物スケッチを並べただけの本作を、まったく物足りないものと感じるのも無理はない。
「いったい三島は何を書きたかったのか?」と、頭をひねるのも無理はない。
 失敗作という烙印も当時としては致し方なかった。

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 この作品の真価に世間が気づいたのは、1970年の三島自決以後である。
 いや、「失敗作」という評価はその後も消えなかったので、「気づいた」のは一部の人間だけだったのかもしれない。

 こんなに重要な作品と知っていたら、もっと早く読んだのに・・・・!

 というのも、本作ほど三島由紀夫の肉声が聞かれ、三島由紀夫のその後が暗示され、三島由紀夫の死の謎に迫っている作品はほかにないと思うからである。
 三島由紀夫の自画像がここにある。
 本作の魅力は、一個の小説としてのそれというより、三島由紀夫という人物を解読する必須テキストとしてのそれなのである。

 自画像を描くにあたって三島がとった手段、それは、自らの分身を5人の主人公に投影することであった。
 たとえるなら、三島を多重人格者と設定したとき、5つの異なった人格を5人の登場人物に振り分けて造型したのである。
 主人格が鏡子。交代人格が清一郎、俊吉、夏雄、収の4人である。
 世間的な成功者の仮面をかぶった人格1(清一郎)は、売れっ子作家となりマスコミの寵児と囃し立てられ、かつそれを自覚的に演じた三島由紀夫。
 思弁を嫌う行動家の人格2(俊吉)は、ボクシングや剣道にかぶれ、右翼団体「楯の会」を立ち上げた三島由紀夫。
 神秘主義にかぶれる天才画家の人格3(夏雄)は、UFOを信じるような童心をもった天才作家としての三島由紀夫。
 ボディビル(肉体改造)にはまり刃物で自決した人格4(収)は・・・・説明するまでもない。
 4人の青年を統合する鏡子は、自らの分身(交代人格)を認識しつつ、だれか一人が均衡を破らないよう、一歩引いた位置で4人を見張る。
 見事に三島由紀夫という人間のさまざまな側面をキャラクター化している。
 それが一人の人間の中にある交代人格である以上、当然、主人格が破綻しない限り、人格間で絡み合い関わり合うはずがない。

 ソルティの妄想だが、三島は遊園地のミラーハウスに入ったときに、この小説を思いついたのではなかろうか。
 左右前後の壁に鏡が貼られた四角い部屋に入って、4つの鏡に映し出された自身の異なった姿を目にした瞬間、自身を4人の人物に分割して開示することを思いついたのではなかろうか。
 だから、ミラーハウス(鏡子の家)と題したのではなかろうか。

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 鏡子を含めた三島の5つの分身は、基本的に「俗世間に対する嫌悪や違和感」を共有している。
 とくに、戦後民主主義社会の凡庸な日常生活を憎み、ニヒリズムに陥っている。
 あるいは、敗戦と国家体制の瓦解という、あらゆる価値が逆転しニヒリズムが輝きを帯びた“自由な”時代にとらわれている。
 ニヒリズムを神とする三位一体ならぬ五位一体。
 第1部では、5人の主役それぞれのニヒリズムの様相と戦後社会(俗世間)に対する身の処し方が描かれ、第2部ではそれぞれのニヒリズムの行く先あるいは落ち着き先が描かれる。

 清一郎は世界の破滅を信じることで日常を軽侮し、逆に、俗世間に称賛される模範的青年像になりきることによって世間的価値をコケにする。
 次期社長の娘婿という洋々たる未來を手にした清一郎は、ニューヨークの財界人が集う秘密のパーティに招待される。
 そこは、世間向けの仮面をはずした成功者らによる倒錯した饗宴の世界であった。
 清一郎を招待した在日本人会の女王たる元男爵夫人は言う。
「因果なことに人間は、一つの顔では我慢できないのね。身を滅ぼしてまで滑稽に奉仕するのね。それも喜んで」
 清一郎は答える。
「自分自身になろうとすれば、滑稽地獄に身を落とすほかはないんですかね」
 ニヒリズムの果ての滑稽地獄、という清一郎の将来が暗示される。
 世界の破滅を願うとは、裏返しの自殺願望にほかならない。

 物を考えないことをモットーとする行動家の俊吉は、ボクシングに打ち込むことで、ニヒリズムも俗世間の騒音も遮断する。
 しかし、ボクシングという生き甲斐を失った俊吉は、精神的な危機に直面しかける。
 そこへ右翼団体幹部の正木が現れ、俊吉をリクルートする。

「われらは建国の理想を明らかにし、日本精神の昂揚を計り、共産主義を排し、資本主義を是正し、敗戦屈辱の亡国憲法の改正を期する。国賊共産党の非合法化を達成し、平和・独立・自衛のための再軍備を推進する。・・・・」

 しかるに、正木自身はまったくその思想を信じておらず、俊吉にも信じる必要などないと言う。なぜなら、

「信じない奴ほど有能だからだ。俺が第一そうだ。俺を見ろ。俺が信じていないということをたしかに俺は知っている。ところがその思想をはっきりと自分の外に見て、そいつを道具に使って、えもいわれぬ陶酔を獲得して、自分の死と他人の死をたえず身近に感じること、それが団員の資格だということを俺は知っている。・・・・」

 物を考えずに行動できる新たな投身先を得た俊吉は誓約を交わし、筋金入りの右翼活動家になる。

 生まれついての天才で世界に「美」を見ることのできる夏雄は、芸術というオブラートに身を包み、俗世間の汚濁から守られてきた。
 そのオブラートが破れる危機感が、夏雄を不安にさせ、神秘主義に誘う。
 だがその効果は長く続かない。
 神秘主義から立ち直った夏雄は、病床で見た水仙の花をきっかけに新たな世界認識を得、日本を離れる。
 メキシコに旅立つ前、夏雄は鏡子に語る。

「世間の人は、現実とは卓上電話だの電光ニュースだの月給袋だの、さもなければ目にも見えない遠い国々で展開されている民族運動だの、政界の角逐だの、・・・・そういうものばかりから成り立っていると考えがちだ。しかし画家の僕はその朝から、新調の現実を創り出し、いわば現実を再編成したのだ。われわれの住むこの世界の現実を、大本のところで支配しているのは、他でもないこの一茎の水仙なのだ。・・・・」

 ある意味、4人の青年の中で夏雄がもっとも“健全な”ニヒリズムからの着地点を見つけたと言えるかもしれない。
 芸術家として自覚的に生きるという・・・・。
 
 舞台役者という、仮面をつけて自分でない人間を演じる、ニヒリストの天職を選んだ収。
 だがなかなか役が回ってこない。
 ひょんなことからボディビル(肉体改造)にはまった挙句、その肉体を傷つけるエロチシズムに溺れる。

自分の脇腹に流れる血を見たときに、収は一度もしっかりとわがものにしたことのなかった存在の確信に目ざめたのである。ここに彼の若々しい肉があり、それを傷つけずにはやまない他人の強烈な関心があり、絶望的な愛の情緒が彼に向けられ、かくてつかのまの爽やかな痛みがあり、まぎれもない彼自身の血が流れているということ、・・・・これで存在の劇がはじめて成立し、痛みと血が彼の存在を保証し、彼の存在をめぐる完全な展望がひらけたといえる。

 収は、母親のつくった借金のかたにサラ金の女社長に買われ、女と心中する。
 収の自死を知ったニューヨークの清一郎は、鏡子への手紙の中でこう綴る。

死はいろんな仮面をかぶって、あいつの前に立ちふさがった。彼は一つ一つその仮面を取って、自分の顔にかぶった。最後に仮面をとったとき、そこには死の怖ろしい素顔があらわれていたが、それさえ彼にとって怖ろしかったのかどうかわからない。彼はそれまで死を意志するあまり、熱狂的に仮面を意志したのだ。

 収の自死のありさまが、脱稿11年後の三島を予見していることは言うまでもない。

 戦後の焼け跡の時代を、夏の太陽が瓦礫を輝かしていた「明日を知らぬ」時代を愛し、その破片をめいめいの内に蔵しているがゆえに4人の青年たちを愛していた鏡子は、物語の最後では別れた夫とよりを戻し、凡庸な日常生活を受け入れる。

――再び真面目な時代が来る。大真面目の、優等生たちの、点取虫たちの陰惨な時代。再び世界に対する全幅的な同意。人間だの、愛だの、希望だの、理想だの、・・・・これらのがらくたな諸々の価値の復活。徹底的な改宗。そして何よりも辛いのは、あれほど愛して来た廃墟を完全に否認すること。目に見える廃墟ばかりか、目に見えない廃墟までも!

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 『鏡子の家』の執筆中、三島は、画家杉山寧の娘である杉山瑤子と見合い結婚し、脱稿直前に第一子(長女)の誕生を経験した。すなわち、昭和時代に標準とされた“一人前の社会人”としての体裁を整え、一家をかまえた。
 卑見だが、本作品は三島由紀夫のニヒリズムとの決別宣言だったのかもしれない。
 鏡子のように世間並みの日常生活を受け入れながら、夏雄のような超然とした位置に立つ芸術家として戦後日本を生きるための・・・・。
 しかるに、実際には、俊吉のように右翼活動に身を投じた挙句、収のようなスキャンダラスな自死に至った。
 当時のマスコミの扱いを見ればわかるように、まさに滑稽地獄に身を落とした

 『鏡子の家』は、三島由紀夫を理解する上できわめて重要な作品である。
 小説としての出来とか芸術性とか完成度を超えて、それは三島の血肉と化しているがゆえに、三島生誕100年、没後55年を迎えた今こそ、読まれるべき作品である。




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損