2020年河出書房新社
ソルティの読書傾向を解析したネット上の何者か(AI?)が薦めてくれた、いわゆるターゲティング広告に教えてもらった本である。
著者の内海健は1955年東京生まれの精神科医。分裂病、うつ病、自閉症などに関する本を書いている。
広告で見た限りでは、金閣寺放火事件の犯人である林養賢と、事件を題材に『金閣寺』を執筆した三島由紀夫――この2人の精神医学的分析がなされているらしく、著者の視点に興味が惹かれた。
三島由紀夫の著作では、主に『仮面の告白』『金閣寺』のほか、『鏡子の家』も言及されているらしい。
そこで、未読であった『金閣炎上』と『鏡子の家』を読んだのであった。
結論を先に言ってしまえば、内海は、小説『金閣寺』の主人公溝口が三島由紀夫の分身であることを前提に、林養賢と溝口(=三島由紀夫)の共通点を「離隔」と指摘している。
聞き慣れない言葉であるが、精神医学における「離隔(detachment)」は、解離症の主要な症状の一つで、自己の意識や身体、あるいは周囲の現実とのつながりが希薄になる感覚を指す。
AIアシスタントが教えてくれるところによれば、その特徴は、
- 離人感:自分の身体や精神が自分のものではないように感じたり、自分を外部から傍観しているかのように感じる。
- 現実感消失:周囲の出来事や環境が非現実的で、夢の中にいるように感じたり、ぼやけて感じられる。
養賢と三島に共通するのは「離隔」である。それゆえ、彼らが邂逅するポイントがあるとすれば、まずはそこになる。とはいうものの、二人がかかえた離隔はその性質を異にする。似て非なるものである。養賢の離隔は二つある。一つは元来の気質に含まれるものである。彼のそもそものテンペラメントであった分裂気質は、現実との間に長い心的距離、間合いを要する。それが離隔の正体である。その距離は安全保障感を与えるものであり、心底には他者に対する秘められたおびえがある。彼もまた親密さをどこかで希求しているのだが、恐れのほうがまさる。こうして分裂気質には、鈍麻、近さと遠さが共存している。もう一つの離隔は、のちに病の発動とともに彼の中に宿ったものである。実存の励起とともに、彼の存在は浮き上がり、世間から、そして生きている現実から隔てられる。誰とも気持ちが通じなくなり、世界は自分から遠ざかる。同時に、外界は何かが起こりそうな予兆をはらむものとなり、内面には他者が侵入してくる不安がつきまとう。ここでも近さと遠さが共在しているが、よりパラドキシカルな様態をとり、彼を困惑させるものとなる。(本書より、以下同)
いささか乱暴に要点を言ってしまえば、林養賢は分裂病患者だったのであり、分裂病の主症状としての離隔に取り憑かれた挙句、金閣寺に火をつけたということである。
なので動機を探しても無駄である。病気だからと言うほかない。
分裂病は、その前駆期において、つまりは症状が顕在化する手前において、もっとも唐突な行為へと突き抜けるポテンシャルをもつ。その典型が自殺であり、稀に殺人である。それには動機がない。徹底的に「無動機」である。それゆえにこそ、驚天動地、人々の耳目を驚かせるものとなる。
養賢についてのこの解釈は、水上勉が『金閣炎上』で試みたものと異なる。
水上は、逆に、養賢を分裂病とみなすことに不合理なものを感じていたらしく、養賢の生来の吃音からくる劣等感や、金閣寺の実態を間近で見ての絶望、将来への悲観など、世間一般が理解しやすいところに動機を求めている。
一方の三島であるが、内海は、離隔こそが三島由紀夫に「生涯にわたって取り憑いた宿痾」であり、その正体は三島と現実の間に横たわっている「言語」であると述べる。
三島の言語の特異性は、リアリティへの回路が半ば閉ざされているところにある。現実はいつも一歩遅れてやってきて、鮮度の落ちたものとして与えられる。むしろリアリティは言語空間の内部で作り出されなければならなかったのである。
これもまた乱暴に言い換えてしまえば、生まれついての三島の言語の美に対する突出した天才が、三島を生の現実から締め出してしまった。普通の幼児なら、肉体(=なまの体験)を通して世界の豊饒と出会ったあとに言語を獲得するが、三島の場合、言語空間が先に成立してしまったため、長じてから、現実世界をリアリティあるものと感じられにくくなったということである。
その結果として、三島文学に特徴的な形質が備わる。
つまり三島の精神世界は、論理的なものと感覚的なもので成り立っており、その間にあるはずの感情や心理的なものが抜け落ちている。その欠落を両者で補っているのである。
本書の白眉はこの一文にあると思う。
まさに、三島文学の、三島由紀夫という人間の肝をついてあまりない。
『鏡子の家』や『朱雀家の滅亡』において身もふたもないまでに曝け出された三島自身のニヒリズム(虚無)の本質も、『鏡子の家』が失敗作と文壇でけなされた原因も、三島が小説よりもむしろ戯曲においてその輝かしい才能を発揮できた理由も、この一点に秘められている。
「感情や心理的なもの」につながる回路が遮断されているがゆえに、周囲の世界をリアリティある生き生きとしたものと感じられない、すなわち、「生きているという実感」が得られにくかったのである。
養賢と三島は「離隔」という点ではつながっているが、二人を分かつものがある。三島の離隔は、分裂病ゆえのものではなく、ナルシシズムに出来するものだから、と内海は述べる。
なるほど、三島由紀夫の晩年の行動にはナルシシズムと言うほかないものが多い。
ボディビルで鍛えた肉体を見せつけるがごとく、ギリシャ彫刻やキリスト教絵画の人物のようにポージングしたヌード写真集を出版したり、映画や舞台に似合わないチンピラ役で出演したり、有名デザイナーに注文したボディコンシャスな制服をまとって軍事パレードを行ったり、文豪の酔狂にしては行き過ぎの趣味の悪さ。当時、三島のナルシシズムに辟易した人も少なくなかったろう。(ソルティはリアルタイムで見ていない)
だが、ここで内海が言うナルシシズムは、フロイトのナルシシズムや上記のような一般的な自己愛とは異なる。
世界に起こる出来事は、彼とは無関係であり、自分はそこに居合わせない。だが、それが彼の世界のすべてである。そこには彼の心的世界に食い入ってくる異質な他者はいない。
三島のナルシシズム世界において、決定的に欠けているのは他者に対する意識である。この点において、ひりひりした他者意識を隠し持つ分裂気質とは決定的に異なる。もちろん、三島は他者の心理がわからないわけではない。それどころか、異常心理も含めて、通暁しているといっても過言ではない。彼の言語は瞬時にその機微をさばいてみせることだろう。だがそれは知解しているに過ぎない。あまりに見事な手さばきでやってのけるので、人の心に精通していると勘違いされることもあるだろう。だが、いくら精妙に理解したとしても、いや、むしろすればするほど、それらに実感が伴っていないことが、彼自身に浮き彫りになる。恋愛の身悶えする苦しみも、胸にこみ上げる切なさも、所詮は他人事である。
内海はその様相をたとえて、「ナルシシズムの球体に閉じ込められている」と言う。
その球体は、感じやすく壊れやすい平岡公威少年を守り、美に対する研ぎ澄まされた感受性と類まれなる言語能力を有する芸術家を育み、世界的作家三島由紀夫を誕生せしめた。
だが、その見返りとして要求されたものは過酷であった。
他者との関係によって生じる感情や心理的な味わい、すなわち「生きている実感」が奪われたのである。
後年になって、そのことが自覚されたとき、三島にとって、ナルシシズムの球体は、愛すべきものであると同時に呪うべき対象となる。まさに、溝口にとっての金閣寺がそうであったように・・・・。
だが、ナルシシズムの球体を突破しようとあがいても、結局は徒労に終わる。
なぜなら、それは自我そのものだから。
離隔からの解放を求めてその球体を壊すことは、自らを滅ぼすことにほかならない。
世にはたくさんの三島由紀夫論がある。
右翼的解釈もあれば、オカルト的(憑依霊)解釈もあれば、LGBT解釈もあれば、 兵役回避によって大戦を生き残ってしまったことへの慚愧の念という解釈もあれば、才能の枯渇や老いに対する不安という解釈もある。
本作はそこに新たな解釈をつけ加えるものに過ぎない。
精神医学的解釈とでもいったところの・・・・。
このうちのどれを正しいとするかは、もはや、三島文学の愛読者ひとりひとりの好みの問題であろう。
ソルティは、内海の提出したこの精神医学的解釈はかなり真相を突いているのではないかという気がする。
ただ、あえて付け加えさせていただくならば、三島の宿痾である離隔の主要な原因として内海は「言語」を上げているが、そればかりではないと思う。
自らの切実なる欲望(=ゲイセクシュアリティ)が社会に位置づけられていないところからくる感情抑圧、すなわち「仮面」の装着を、幼いころから習い性としてきたことも無視できない要因なのではないかと、三島と同じく昭和時代に青少年期をすごしたLGBTの一人として思うのである。
さすがに精神科医だけあって、本作で論じられる分裂病(統合失調症)の説明はえぐいほど面白い。
分裂病患者の行動に動機がないことを説明するのに、ベンジャミン・リベットの自由意志に関する実験を持ち出したり、分裂病の症状が事後的に形成されることを説明するのに、量子論で有名な「シュレディンガーの猫」の話を持ち出したり・・・・。
あるいは、分裂病患者がしばしば訴える思考伝播(「私の思考が他人に盗まれている」)が、乳幼児期の母親との関係を通して誰もが経験し意識の基層にもっている構造であると言ったり、分裂病の発症はすでに回復の始まり(復路)であると言ったり・・・・。
あるいは、分裂病患者がしばしば訴える思考伝播(「私の思考が他人に盗まれている」)が、乳幼児期の母親との関係を通して誰もが経験し意識の基層にもっている構造であると言ったり、分裂病の発症はすでに回復の始まり(復路)であると言ったり・・・・。
これが現在の統合失調症治療の標準的パラダイムなのか、それとも内海ひとりの考えなのかは知るところでないが、とても興味深く読んだ。
さらには、本書ではさらりと言及されるにとどまっている、無視できない一節がある。
世俗的成功の絶頂に支えられ、四年後、満を持して「鏡子の家」が発刊される。この作品の運命についてはすでにみた。おそらく、この小説に描かれたいくつかの類型と主体のあり方は、半世紀後の人間像を先取りしている。俗にいうなら、早すぎたのである。複数化と劇化の中で、ニヒリズムとナルシシズムの牢獄から抜け出し、歩みだそうとした夏雄は、嬰児のまま、川に流された。三島の精神病理はむしろ現代的だったのであり、今においてこそアクチュアルなものである。
つまり、ナルシシズムの球体に包まれた「離隔」は、令和の日本人に一般化していると言っている。
これは単に、分裂病もとい統合失調症患者が増えていることを意味しているのではあるまい。
察するに、他者と向き合って対話する能力を欠く人間が増えているという示唆なのかもしれない。
あるいは、「生きている実感」をつかむために、その場限りの全体主義的な昂揚に身をまかせる人間が増えているという警句なのかもしれない。
ひょっとしたら、来たるべきAI社会においては、人間の感情や心理的なものは邪魔になるばかりで、情報の出入力(感覚的なもの)とアルゴリズム(論理的なもの)のみが有用になるという予言なのかもしれない。
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