毘沙門天と聞くと、70年代に地元埼玉で悪名を轟かせた暴走族を思い出す。
 当時中学生のソルティは、学校近くを流れる川のコンクリートの橋げたや、田んぼの中に立っているボンカレーの看板に、毒々しい黒ペンキで「毘沙門天」と殴り書きされているのを見た。
 文金高島田のごときオールバックに剃り込みを入れた、校内一、二を争う札付きの不良たちは、「おれ、高校行ったら毘沙門天に入れてもらうんだ」と熱っぽく語ったものである。
 「毘沙門天=不良、おっかない、うるさい、シンナー、カツアゲ」というイメージがついてしまったものだから、その後、仏教の守護者としての毘沙門天を知ったとき、族イメージを払拭するのに手間取った。
 「おっかない」というイメージだけは、毘沙門天像の憤怒の面差しに通じるものであったが・・・。

暴走族

 仏像に興味をもつようになって、毘沙門天が、仏像の四区分(如来,菩薩,明王,天)のうち天部に属する神様で、東南西北(トン・ナン・シャー・ペイ)を護る四天王のひとりとして北を担当し、多聞天という別称を持つことを知った。
  • 東 持国天(ドゥリタルーシトラ)
  • 南 増長天(ヴィルーダカ)
  • 西 広目天(ヴィルーパクシャ)
  • 北 多聞天(バイシュラバナ)
 もともとはインド古来の神様だったが、お釈迦様の教えを聞いて真理に目覚め、仏教を守護する存在になったのだという。
 ちなみに、東南西北の順に「じ・ぞう・こう・た(地蔵乞うた)」と覚える。

 四天王は、普通、お寺の山門の中やお堂の本尊の周囲に、それぞれが守護する方角に合わせて置かれているので、名前の表示がなくとも方角さえ分かれば、どの像がどの神様なのか判明する。
 しかるに、博物館や宝物館などで横に4体並んで置かれていたり、方角の見当がつかないような場合、見分けるのに苦労する。
 というのも、それぞれの神様が手にもつアイテム(道具)や体のポーズが、明確にはこれと決まっていないからである。
 広目天は、国宝指定されている法隆寺金堂や東大寺戒壇堂の像に見られるように、筆と巻物を持っていることが多い。憤怒の表情と文系アイテムのギャップが面白い。
 だが、広目天が必ずしも筆と巻物を持っているとは限らない。
 現在東京国立博物館で開催されている『運慶 祈りの空間――興福寺北円堂』の広目天像は、先が3つに分かれた三叉戟(さんさげき)を左手に持ち、右手は腰に当てている。
 こうなるともはや、シャッフルされたら、誰が誰だか分からないってことになる。

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東大寺戒壇堂の広目天

 救いの手がひとつだけある。
 それは宝塔を捧げる手である。
 お釈迦様の教えの象徴である宝塔を持つことが許されているのは、四天王の中で多聞天だけである。
 間違っても、ほかの三神が手にすることはない。
 多聞天は、四天王のリーダー格であり、特別な存在なのである。
 であればこそ、毘沙門天という異名をもらって単体でも祀られるのであり、四天王の中でひとりだけ七福神の仲間入りして福の神らしからぬ物騒な戦闘服で違和感をかもし出しているのであり、埼玉の暴走族のチーム名に選ばれたのである。

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興福寺中金堂の四天王像
右下より時計回りに、持国天・増長天・広目天・多聞天

七福神
七福神
左手に宝塔を持っているのが毘沙門天

 田辺勝美著『毘沙門天像の誕生 シルクロードの東西交流』(吉川弘文館、1999年発行)によると、インドで四天王像の原型がつくられるようになったのは、紀元前2~1世紀で、仏塔――お釈迦様の象徴。お釈迦様そのものの姿は最初は造形化されなかった――を守護する神として、インド古来の民間信仰の神であるヤクシャ(夜叉)を東南西北に配した。
 ヤクシャは本来、樹神や樹精であったという。
 北方の神をクヴェーラと言った。
 当時建てられた石柱に残っている彫像を見ると、四天王はみな同じインド人王侯風の外観をしていて、とくにこれといったアイテムも持たず、クヴェーラを見分けるのは難しい。

 紀元前後に大乗仏教が起こると、お釈迦様の姿も造形化されるようになった。
 釈迦如来像の誕生である。
  
 西暦1~3世紀頃、大乗仏教はパキスタン北部ガンダーラ地方に広まった。
 ゾロアスター教から仏教に改宗したイラン系のクシャン族は、四天王のうち特に北方を守護する神を重視し、インド系のクヴェーラ神をイラン系のファッロー神に変え、四天王の筆頭とした。
 外観もまた、ファロー神の特徴――頭部の一対の鳥の翼、長袖の上着(チュニック)、ズボン、靴――に合わせて変身させた。
 これが毘沙門天像の原型となった。
 その後、毘沙門天はさらに出世し、釈迦が出家踰城(ゆじょう)したときの道案内の役を担い、闇を追い払う力を持つとされた弓矢をアイテムとして与えられたり、釈迦が悟りを開いたあと四天王を代表して食事の鉢を献上する役を仰せつかったりと、ほかの三神に差をつけていった。

四天王捧鉢
紀元3~4世紀ガンダーラ出土の仏像彫刻
釈迦如来を取り囲む四天王たち
釈迦の左にいるのが毘沙門天
1人だけカッコいい出で立ちである

 大乗仏教は中央アジアから中国へと広まった。
 大量の大乗教典が中国へと伝わり、その内容に即したさまざまな仏像がつくられるようになる。
 四天王像は、仏法と国家を守護する神として重視されていくにつれ、鎧を身に着け、さまざまな武器を具し、軍神化していった。 
 領土を守るとは、すなわち、東西南北の守りを固めることにほかならない。

 松浦正昭編著『日本の美術NO.315 毘沙門天像』(至文堂、1992年)によると、宝塔をもつ毘沙門天像は、インドにもガンダーラ地方にも見つかっていない。
 宝塔をもつ現存最古の毘沙門天像は中国にある。
 523年、南北朝時代の武帝統治下の梁(南朝)においてつくられた石造釈迦如来諸尊像の中に、うずくまる邪鬼の上に立ち、右手に大きな宝塔を捧げた毘沙門天像が刻まれている。
 宝塔を持つ毘沙門天像は、この時代の中国において生まれたと考えられている。
 宝塔を持たせた理由は分かっていない。
 が、それは釈迦の教えを象徴するものであるから、すでに四天王の中でゆるぎない地位を築いていた毘沙門天がその栄に浴したのは、不思議ではなかろう。

 日本における現存最古の毘沙門天像は、623年止利仏師によってつくられた法隆寺金堂釈迦三尊像の台座に描かれた四天王像である。
 ただし、この絵は剥落が激しく、持物や手勢など細部が不明で、どれが毘沙門天かわからない。
 が、日本の初期の仏像は中国の南朝の影響を受けているので、宝塔を手にしていたものと思われる。
 現存最古の宝塔を手にした毘沙門天像は、同じ法隆寺金堂の中にある木造の四天王像で、つくられたのは650年頃とみられる。
 以降、日本の毘沙門天像は宝塔を持つのがお約束となった。
 実に1400年間、その姿は変わっていない。
 宝塔を捧げている、あるいは宝塔を捧げていたような形跡がある。それが毘沙門天を見分けるポイントである。

毘沙門天像(奈良仏像館)
兜跋毘沙門天
奈良国立博物館所蔵

 最後に、なぜ毘沙門天を多聞天とも呼ぶのか?
 サンスクリット語の「バイシュラバナ」の音をそのまま漢字表記したのが「毘沙門」で、バイ(多く)+シュラヴァナ(聞く)を漢訳したのが「多聞」だからである。
 毘沙門天がお釈迦様の教えをよく聞いたという逸話からその名がついたと説明されることが多い。
 しかるに、上記書の中で田辺が指摘しているとおり、
 
 釈迦牟尼仏陀の説法を最も多く聴聞したのは仏弟子のアーナンダないしその化身ともいわれる執金剛神なのであって、決して毘沙門天ではないのである。
 
 ソルティは、むろん大乗経典、小乗教典(阿含経典)のすべてに目を通したわけではないが、少なくともこれまで15年以上仏教を学んできて知る限りでは、毘沙門天がお釈迦様の教えを聞く場面を説いたお経には出会ったことがない。
 なぜ、バイシュラヴァナ(多聞)と名づけられたのかはいまも謎であるけれど、少なくとも、多聞天という名前の暴走族はカッコよくない。
 
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