2025年新潮社

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表紙は円成寺の大日如来像

 過去に足を運んだ高野山金剛峰寺、半蔵門ミュージアムに加えて、この一年間だけで、興福寺、東大寺、六波羅蜜寺、超国宝展(奈良国立博物館)、願成就院(伊豆)、瀧山寺(岡崎)、興福寺北円堂展(東京国立博物館)、浄楽寺(逗子)とめぐって、いま時点で運慶作と言われている国内の主要な仏像はほぼ踏破した。
 残っているのは、栃木・光得寺の大日如来坐像と神奈川・称名寺光明院の大威徳明王像だが、前者は現在東京国立博物館に保管されているようだし、後者は破損はなはだしく通常展示はされていないようなので、そのうち機会あれば拝観したい。
 今年はソルティにとって運慶元年とでも言える一年になった。
 これもそれも奈良大学歴史文化財学科の学生になったがゆえである。
 来年は快慶元年になりそうな予感・・・・。

 そんなタイミングで出会った本書は、まさに運慶仏の総復習にピッタリの充実内容であった。
 著者の山本勉(1953~ )は運慶研究の第一人者で、現在、半蔵門ミュージアムの館長、鎌倉国宝館長をされている。
 栃木・光得寺の大日如来像(1986年)も、半蔵門ミュージアムの大日如来像(2003年)も、たまたま像の存在を知った山本が現地調査に入って運慶作と判定し、その後の驚嘆すべき展開――クリスティーズのオークションで真如苑が約14億円!で落札――につながった経緯があり、いわば、埋もれていた2体の運慶仏を世に送り出した生みの親である。
 「運慶に選ばれた男」と言ってもあながちはずしてはいないだろう。

 本書は、山本の運慶研究の集大成であり、学者人生の総括といった趣きのある渾身作である。
 運慶の手がけた仏像が、時系列でくわしく説明されており、ひとりの偉大な芸術家の成熟が専門的見地からたどられていると同時に、古代から中世に転換する激動の時代を自由闊達に生きたひとりの男の生涯が浮き彫りにされている。
 研究書という側面もあるので、これから運慶や仏像を学ぼうというビギナーには難しいきらいもある。
 が、ひとつひとつの仏像について、造像の背景や技法上の工夫が解説され、あわせて山本の磨き抜かれた審美眼による批評がほどこされ、仏像鑑賞のポイントを学ぶに役に立つ、いわば、「運慶仏鑑賞ガイド決定版」として手元にあって損はない一冊である。

運慶
六波羅蜜寺の運慶肖像

 ときに、運慶仏について、ソルティはしばらく前から気になっていることがあった。
 水上勉著『金閣炎上』を読んで、昭和25年(1950)に修行僧林養賢の放火によって焼失した金閣寺舎利殿の中に、建立者である足利義満の肖像彫刻とともに、観音菩薩像、阿弥陀如来像、勢至菩薩像、地蔵尊像(いずれも木像)があり、そのうちの観音菩薩像は運慶作と伝えられていたと知った。
 仏像はすべて舎利殿とともに灰燼に帰したので、いまとなっては運慶作かどうか調べようがない。
 が、もしこれが本当に運慶がつくった仏像であったとしたら、一体いつどういう事情でつくられ、どういう経緯で金閣寺にやってきたのだろうか?
 実際に、運慶仏であった可能性はあるのだろうか?

 本書には、運慶が関わったことが文献史料で裏付けられている造仏の仕事の全容が漏らさず記されている。
 ありがたいことに巻末には「運慶年表」も掲載されている。
 年表には、「運慶に直接関係する事項」が、典拠の記載とともに、時系列で整理されている。
 さて、運慶の仕事履歴に観音菩薩像の造像はあるだろうか?

 二つあった!
 一つは、正治3年(1201)愛知県岡崎の瀧山寺の寛伝僧都からの依頼でつくった源頼朝追善のための聖観音。息子の湛慶とともに取り組んでいる。
 これは現在も瀧山寺に現物があるので、金閣寺のそれとは関係ない。
 いま一つは、承久3年(1221)北条政子が高野山金剛三昧院を建立した際、その本尊として納めた聖観音。
 本書によれば、

『帝王編年記』には、承久3年(1221)に北条政子が実朝のために高野山に金剛三昧院を建立し、その本尊は正観音(聖観音)で、御身に(身内)に実朝遺骨を籠めたことが記される。この観音像は鎌倉末期の『信堅院号帳』によれば「実朝大臣殿の御本尊」で雲慶つまり運慶の作だという。

 すなわち、孫の公暁によって暗殺された息子実朝を偲び、北条政子が金剛三昧院を建てた。その本尊として、生前実朝が運慶に作らせた観音像を祀ったということになる。(下記※参照)
 しかるに、現在の金剛三昧院の本尊は愛染明王であって、観音菩薩ではない。
 ネットで調べた限りでは、金剛三昧院にも、高野山にも、運慶作の観音菩薩像なるものは見当たらない。
 高野山の運慶仏として知られているのは、霊宝館にある八大童子像6体のみである。
 実朝の遺骨を籠めた観音像、“実朝観音”は何処に消えたのだろう?
 高野山の奥の院に絶対秘仏として隠されているのか?
 金剛三昧院が元徳2年(1330)に焼失したときに一緒に焼かれてしまったのか?
 明治の廃仏毀釈の折に、二束三文でどこかに売られてしまったのか?
 あるいは・・・・高野山から洛中に、金剛三昧院から金閣寺に、実朝観音が移された可能性はあるのだろうか?

金閣寺2

 金閣寺を建てた足利義満をはじめとする足利将軍家と高野山金剛三昧院に、なんらかの因縁はあったのか?
 ――これがあったのである!

室町時代になると足利尊氏が金剛三昧院の僧、実融に帰依したことを契機として室町幕府は高野山を保護するようになり、その後も各将軍の参詣が相次ぐ。中でも康応元年(1389)の三代将軍義満の高野参詣は、空前絶後の規模であったといわれる。(『高野町歴史的風致維持向上計画』より抜粋)

当院の本尊は愛染明王という仏様で、憤怒の相という、怒ったようなお顔をされています。・・・(中略)・・・愛染明王像は、源頼朝公の等身大の念持仏で、仏師・運慶の作であると伝えられています。本尊の脇には源頼朝公・北条政子、足利尊氏公、その弟の足利直義公のお位牌が安置されています。(『金剛三昧院ホームページ』より抜粋)

 愛染明王像が運慶作というのは、さすがに眉唾である。
 菩提を弔うのに愛欲の象徴である愛染明王がふさわしいかどうかという点はおいといても、金剛三昧院の愛染明王像は運慶の作風とは相容れない。本書で山本もまったく触れていない。
 一方、足利尊氏と直義の位牌があることは、足利家と金剛三昧院の関係の深さを十分物語る。
 さらに、

金剛三昧院所蔵の「六巻書」には、鎌倉幕府・室町幕府や、その有力者たちが金剛三昧院に宛てた文書が多数収められている。「六巻書」各巻は、足利尊氏や義満ら、歴代の足利将軍の花押が冒頭に据えられているのが特色で、足利将軍が、金剛三昧院に荘園支配の権利にかかわる文書の効力に“お墨付き”を与えたことになるという。(ラジオ関西トピックス「ラジトピ」ホームページ、2024年5月8日の記事より)

 寺領である荘園の権利を守るために、金剛三昧院が足利将軍の庇護を恃むのは無理からぬところである。
 片や、源頼朝と共通の先祖・源義家をもつ足利将軍家が、源氏の末裔としての血統を誇るべく、源頼朝や源実朝の菩提を弔った金剛三昧院を贔屓するのも然るべきところである。
 金剛三昧院と足利将軍家には深いつながりがあったのだ。

 もし、足利義満を崇敬する足利将軍の後継が、金閣寺舎利殿の義満像と並べて祀るために、大仏師運慶のつくった実朝観音を強く所望した場合、金剛三昧院はこれを断れるだろうか?
 それなりの好条件と引き換えに譲り渡すこともあり得るのではないか。
 たとえば、焼けた金剛三昧院の再建と引き換えに・・・。 

 昭和25年の夏、林養賢が舎利殿とともに焼却した観音菩薩像が、運慶作の実朝観音だったとしたら・・・・。
 実朝はまたしても出家に襲われた  
 妄想は膨らむばかり。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮(鎌倉)
実朝暗殺の舞台となった


※この引用文中の「実朝大臣殿の御本尊」についての解釈で、著者の山本勉氏より「誤読」とご指摘いただきました。ソルティは最初、「実朝の死後に政子が運慶につくらせた観音像」と解しそう記しました(10/29)が、そうではなくて、「実朝が生前運慶につくらせた観音像」を政子が金剛三昧院に祀ったとのこと。然るべく訂正いたしました(11/5)。謹んで山本勉氏に御礼申し上げます。

 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損