昨年12月半ばに受けた書誌学の試験結果が郵送されてきた。
無事、合格(80点)。
ほっとした。
事前に提示されている5つの設題のうち、当日出題されたのは「初印本と後印本の区別の方法について述べよ(出題番号9)」だった。
もちろん、ソルティは5つの設題すべてについて自分なりに回答を作成し、がむしゃらに暗記して試験に臨んだ。
が、5つの中で一番自信が持てない回答がまさに9番だった。
字数は500字に届かず、答案用紙の1/3も満たない。
これで大丈夫だろうか?
試験直前、「9」という数字が板書されたのを見たとき、「あちゃー!」と心の中で叫んだ。
記憶したままを書き写すほかなかったが、20分ほどで終えてしまい、試験会場から一番早く退出した人間になってしまった。
正直、合格するかどうか自信がなかった。
高尾山初詣(DA・I・KI・CHI!)が効いたのかもしれない。
今回、書誌学を学んで初めて知り、「へえ~」と感心したことの一つは、豊臣秀吉と活字印刷との関係であった。
日本の印刷は古来、版木に文字を左右逆に彫ってその上に墨を塗り、料紙を置き、バレンでこすって印刷する、いわゆる製版印刷が主流であった。
室町時代になって活字印刷が始まるのだが、そのきっかけを作ったのが秀吉の朝鮮侵攻(1592文禄の役&1597慶長の役)だったのである。
秀吉の武将である小西行長、加藤清正らが、書物や工人とともに銅活字を略奪してきたのが、日本における活字印刷の端緒となった。
これを古活字版と言う。
ちなみに、活字印刷とは、1字ずつ独立した文字を彫刻し、これを配列組み合わせて原版にし、印刷する方法である。
実は、活字印刷の流入にはもう一つ別のルートがあった。
天正18年(1590)、布教のために長崎にやって来たスペインやポルトガルのキリスト教宣教師たちもまた、活字印刷機・アルファベット活字・付属器具・印刷技師を持ち込み、印刷を始めた。
これをキリシタン版と言う。
よく知られるように、徳川家康は厳しい禁教対策をとった。
慶長18年(1613年)に出されたキリスト教禁止令により、キリシタン版は姿を消すことになり、以後は古活字版のみが定着した。
キリシタン版は、宣教師やキリシタン学校の教師用の教科書(『平家物語』や『後漢朗詠集』などの文学書もあった)と、修道士や信徒用の宗教書など、禁止までの約20年間に50点に及ぶ書籍が印刷されたと思われるが、現存するのは約30点のみである。
秀吉のもたらした古活字版は、江戸時代初期に隆盛を極め、徳川家康自らが銅活字を鋳造し出版事業を行ったほか、『日本書紀』、『万葉集』、『伊勢物語』、『竹取物語』、『枕草子』、『古今集』、『太平記』などが初めて出版され、多くの人が日本の古典に触れる機会をつくった。
また、印刷出版が商売として成り立つ基礎がつくられ、京都の本屋新七をはじめとする本屋が生まれた。
これが、昨年のNHK大河ドラマ『べらぼう』で描かれた寛政期の蔦屋重三郎ら出版プロデューサらの輩出につながるのである。(もっとも、古活字版は50年ほどで廃れたので、『べらぼう』に出てきた本は、基本的に製版印刷の袋綴である)
今年の大河ドラマはまさに『秀吉兄弟』。
豊臣秀吉と秀長の天下取りまでの苦難と兄弟愛が描かれる。
秀吉の朝鮮侵攻と活字印刷のはじまりも描かれるかなあ~と思ったが、調べてみると弟・秀長が亡くなったのは、天正19年(1591)、朝鮮侵攻の前年である。
秀長は朝鮮侵攻に関わっていないのであった。
ドラマで朝鮮侵攻まで描かれるか分からない。
ドラマで朝鮮侵攻まで描かれるか分からない。
秀吉の右腕で、ただ一人直言できるいさめ役であった秀長が生きていれば、秀吉の無謀な朝鮮侵攻はなかったかもしれない。
でも、その場合、古活字版は登場しなかった。
日本の印刷の歴史は違ったものとなっていたかもしれない。
奈良大学で歴史文化財を学ぶようになって得た特典の一つは、大河ドラマを見る楽しみが格段と増したことである。



