2022年平凡社新書
以前、末木文美士(すえきふみひこ)著『日本仏教史』を面白く読んだ。
別の研究者による別の視点からの、最新の研究成果を取り入れた仏教史を知りたいと思い、本書を手に取った。
著者は日本中世史、宗教社会学を専門とする学者で、2019年3月まで山形大学で教員をしていた。
ジャ×ーズ事件を一蹴するほどの日本仏教界の恥部を暴いた『破戒と男色の仏教史』を書いた人だけあって、ユニークな視点が冴える仏教史であった。
以下、「へえ~」「なるほど!」と思ったポイントを挙げる。
● 日本で最初の出家者(正式な僧侶)は女性だった!
584年、渡来人であった司馬達等(しばたっと)の娘の嶋らが、百済に渡り、正式の授戒を受け、正式の出家者となって帰国したのがはじまり。出家名を善信尼といった。(山岸涼子作のコミック『日出処の天子』に出てくる)
日本では、奈良時代後半(754年)に鑑真が来日するまで、戒を授ける資格を持つ僧侶がいなかった。国内で正式の授戒ができなかった(=僧侶を育成できなかった)のである。
女人禁制のイメージの強い日本仏教だが、僧侶第1号は渡来系の女性だった。
● 遁世僧とは?
遁世僧というのは、本来、出家と同じ意味でしたが、12世紀以降には、いったん官僧となった後に、官僧身分を離脱して、仏道修行に励むことを意味しました。法然、親鸞、道元、日蓮、一遍といった、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちも遁世僧でしたし、貞慶、明恵、叡尊、忍性ら、従来、旧仏教の改革派と呼ばれた仏教者たちも遁世僧だったのです。
もともとは官すなわち政府が庇護する教団に属していた出家者が、いろいろと縛りある教団を離れて「個人」の救済のために野に下った。これが鎌倉仏教の特徴と松尾は指摘する。
たとえれば、国家公務員として“国のため”に働いていた官僚が、苦しむ民を目の前に一大決心し、安定した生活を投げうってNGO活動に飛び込んだ・・・・みたいなものか。
とくに、10世紀以降、日本の僧侶は死穢に触れることが許されなかったので、葬送に携わることができなかったし、ハンセン病者の救済のような活動もできなかった。(これは穢れを忌避する日本独特の規定であり、本来の釈迦の教えではない)
その限界を突破して、庶民への布教や虐げられた者の救済に乗り出したのが、上記の遁世僧たちだったのだ。(むろん、奈良時代には行基という先達がいた)
ある意味、日本の大乗仏教史における、さらなる「小乗から大乗へ」の転換といった印象を受けた。
● 叡尊と忍性
本書では、鎌倉時代の僧侶として、叡尊(1201-1290)と忍性(1217-1307)の2人の紹介に多くのページが割かれている。
正直よく知らない人であった。だが、
正直よく知らない人であった。だが、
鎌倉時代においては法然、親鸞、道元、日蓮といった今日著名な僧侶たちよりも、はるかに有名で、宗教のみならず政治・経済・文化の面でも、日本社会に大きな影響を与えた人物です。現在において叡尊がそれほど知られていないのは、親鸞を典型とする鎌倉新仏教中心史観によって、叡尊らが重視した密教と戒律は、呪術的で難行とされ、叡尊らは旧仏教改革派として過小評価されてきたからです。また、叡尊の系譜を引く教団(真言律宗教団)の勢力が現在は優勢でないこともその背景にあります。
なるほど。
法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍ら鎌倉仏教の祖師たちに対する現在の評価や人気の高さや今も存続する教団の勢力がひとつのバイアスとなって、当時の社会の実情を知るのを妨げているってことだ。
現在のモーツァルトのあまりの人気の高さのせいで、同時代の音楽家として最も評価が高く人気のあったサリエリが正当に評価されていないのと似ているかもしれない。
戒律復興運動につとめ、橋・池・道路などの建設事業を行い、女性出家者のための尼戒壇を設立し、差別の厳しかったハンセン病者の救済や葬送に尽力した叡尊の事績は、聖人というにふさわしい。
さらに、叡尊の弟子である忍性は輪をかけて“忘己利他(もうこりた)”の人で、ハンセン病者の救済に生涯をかけたその生きざまは、「マザー・テレサに劣らない」と松尾は称えている。
● 米沢の隠れキリシタン
慶長18年(1613)徳川幕府がキリシタン禁止令を出したことにより、全国でキリシタンに対する弾圧と撲滅が行われたのはよく知られるところである。
そうしたキリシタンの殉教といえば、京都や長崎など西日本の殉教者がよく知られています。しかし、東北地方、とりわけ山形県米沢市での弾圧は、京都のそれが52人に対して53人と、数の上では最も多い殉教者を出したのです。東北のキリシタン信仰は、東北へ流れ込む信者たちと、潜伏していた宣教師たちの活動とがあいまって、全国的には衰退期といわれる元和年間(1615-24)から寛永初期(1624-34)にかけて全盛期を迎えることになります。
当時米沢には3000人ものキリシタンがいたというからビックリ。
これはどうやら、山形に延沢銀山があったことが大きな理由らしい。
各地からキリシタンの鉱夫が流れ込んでいたのだ。
当時の文書を見ると、鉱山にはキリシタンが多くいたそうだ。
キリシタンと鉱夫。
この結びつきの理由には興味をそそられる。
寛永5年(1629)1月12日、53人の米沢のキリシタンが処刑された。
米沢市の北山原には殉教遺跡があるという。
島原の乱(1637-38)を筆頭とする、こうしたキリシタン信仰の力におののいたがゆえに、徳川幕府は仏教を国教化した、すなわち寺請制度を用いた民衆統制をはかったのである。

日本の仏教は、国家統一の具として用いられたり(鎮護国家)、神道と合体したり(神仏習合)、国教の地位まで押し上げられたり(檀家制度=国民総仏教徒)、国家神道を形成するために排斥されたり(神仏分離)、いいように政治に利用されてきた。(それは神道もまた同じである)
多くの民はそれに乗せられてきた。
その中で、真の仏教は何たるかを真剣に追い求めていた一握りの人々がいたのである。
おすすめ度 :★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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