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2024年日本、台湾、アメリカ
114分、白黒&カラー

 禅の十牛図がモチーフになっている。

十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもの。「真の自己」が牛の姿で表されているため十牛図といい、真の自己を求める自己は牧人(牧者)の姿で表されている。十牛禅図や牧牛図ともいう。作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵。
(ウィキペディア『十牛図』より抜粋)

_Looking_for_the_Ox_,_by_Tenshō_Shūbun
尋牛(牛を探す)
 
 ソルティが十牛図を初めて知ったのは、今から30年前の30代前半。
 バグワン・シュリ・ラジニーシ(osho)の講話録『究極の旅』という本によってであった。
 当時、ずいぶんラジニーシにはまった。
 数冊立て続けに読んだ。
 今なら、ラジニーシがいかにいかがわしく危険な男であるかをネットで知ることができるけれど、当時ネットなどなかった。
 生と死の神秘を授けてくれるインドの覚者、といったイメージを抱いた。
 内容は忘れてしまったけれど、ラジニーシの解き明かす十牛図は魅力的だった。
 その後、ラジニーシを糾弾する元信者の本『堕ちた神(グル)』(第三書館)を読んだこともあって、ソルティの関心はクリシュナムルティに移っていった。
 精神世界の旅人が通る道である。

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見跡(牛の足跡を見つける)

 いまひとつ。
 十牛図と言えば、京極夏彦の『鉄鼠の檻』である。
 悟りを求める修行僧たちが起居する禅寺で起こる殺人事件の解明をめぐって、探偵役の中禅寺秋彦が十牛図に触れる箇所があった。
 このとき、十牛図はもともと八牛図であって、最後の二図はのちに廓庵が付け加えたという説があるのを知った。

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見牛(牛を見つける)

 十牛図をどう解釈するか、牛を何の比喩ととらえるかは、いろいろな説がある。
 牛=「真の自己」「悟り」「仏性」「心」「真理」「私(自我)」・・・など、解釈はさまざま。
 その曖昧さと多義性こそが、かえって十牛図を謎に満ちた、奥深いものに思わせ、今日まで重んじられてきたのだろう。
 
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得牛(牛をつかまえる)

 監督の蔦鉄一朗の名ははじめて聞いた。
 1984年徳島県生まれ(満42歳)。
 80年代に甲子園優勝を何度も果たして一躍有名になった徳島県池田高校野球部の蔦文也監督(1923-2001)の孫とのこと。
 蔦文也の足跡をたどる記録映画も撮っているらしい。
 2018年秋にソルティが四国遍路で池田町を歩いたとき、地元の人が、「このへんで有名なのは蔦文也監督と祖谷(いや)のかずら橋」と言っていたのを思い出す。
 亡くなった後も町民に慕われているのを感じた。

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牧牛(牛をなだめる)

 蔦が十牛図をどのようにアレンジして用いているのだろうと思ったら、ほぼまんま十牛図をなぞっていた。
 全編を10章(正確には9章)に分けて、それぞれの章の冒頭に各図のタイトルを提示する。
 山奥に棲み、家も財産も家族も持たない知恵遅れのような青年が、老婆に拾われ、一緒に暮らし、田んぼの仕事を教わる。
 老婆の世話をし、やがて老婆を見送り、ひとりになる。
 牛を見つけ、牛を捕まえ、牛を家に連れて帰る。
 通りがかりの禅僧と出会い、牛の使い方を教わる。
 牛を飼いならし、耕作し、牛と生活する。
 やがて牛を失い、またひとりになる。
 最後は家を出ていく。
 十牛図の映像化と言ってもいいくらい、まんま十牛図であった。

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騎牛帰家(牛に乗って家に帰る)

 映像ならではの良さとしては、全編フィルム撮影による生々しい手触りによって、大自然が焼き付けられているところ。
 CG全盛のいまどき、これほど実直な全編ロケ作品が撮れたとは奇跡のよう。
 黒々とテカる牛が発散する生命力、画面を真白にするほどの大雨、素足で走るのが痛いようなごつごつした岩肌、牛が鋤引きする水田の泥の重さ。
 五感を刺激する映像体験がここにある。 
 白黒画面が観る者にもたらすリアルな触感と映像美は、黒澤明や溝口健二を思い起こさせる。

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忘牛在人(牛を忘れ人が在る)

 一方、ゆったりとした時の流れを延々と映し出すカット、およびセリフの少なさがもたらす非ドラマ性は、タルコフスキーやカール・T・ドライヤーのよう。
 観る者に忍耐を強いる。
 ソルティも眠気とたたかった。
 牛とは「眠気」のことなのか?(笑)

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人牛俱忘(人も牛も忘れる)

 ひとりの男の(魂の)遍歴が描かれること、白黒作品であり光と影のコントラスト表現が秀逸であること、木や川や大地や草や空など自然のありさまが映し取られていること、そういった点からヴァーツラフ・マルホウル監督の『異端の鳥』(2019)を連想したのだが、テーマの違いは措いといて、より「映画的」なのは『異端の鳥』のほうである。
 『黒の牛』の眠気の原因は、ドラマにも映画にも十分成り切れていないってところにあるように思う。
 最後の爆発(原爆?)ショットやラストクレジット終了後に示される第10図タイトル提示の意図を含め、監督がいったい何を言いたいのか分からないし、映像美はふんだんにあるものの、観る者を驚かし眠気を吹っ飛ばしてくれるような才知あるショットは少なかった。

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返本環源(すべては源に還る)

 ひとつだけ、衝撃的なショットがあった。
 それは第7図から第8図に移る際にスクリーンを蔽う約70秒間のショット。
 こういったショットを見た記憶は、ソルティの長い映画マニア人生にもなかった。
 これはテレビではちょっとできないだろう。
 ユニークで勇気ある試み。
 このショットにおいて覚醒した。

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入鄽垂手(店に入って手を垂れる)

 主演のリー・カンションの無垢なる表情とたたずまいは素晴らしい。
 演技で無垢を演じるくらい難しいものはないだろう。
 「うまく演じよう」という動機そのものが、無垢から人を遠ざけるからだ。
 禅僧役の田中泯を見ると、それがよくわかる。
 田中泯の役者として自己(エゴ)の強さは、人間国宝の女形(@『国宝』)には向いていても、悟った禅僧には向いていない。(『鉄鼠の檻』に出てくるような悟りに憑りつかれた禅僧には向いている) 

 思うに蔦の描きたかったのは、大自然の中に無心に生きる人間の美しさなのかもしれない。

kazura
祖谷のかずら橋

 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損