1970年筑摩書房
奥付に2025年発行とあったので新刊と思って買ったら、復刊本だった。
1970年と言えば半世紀以上前。
大阪万博が開かれ、三島由紀夫事件があった年である。
その頃の日本の仏教界はどんなだったろう?
都心郊外のサラリーマン家庭の子供だったソルティには知るべくもないが、「かなり安泰」だったのではないかと思う。
江戸時代から続く葬式仏教が生きており、地域のお寺は檀家たちから法事のたびに受け取るお布施で、かなり潤っていたことだろう。
元手が要らず、税金がかからないお寺の財布は、「坊主丸儲け」と揶揄されていた。
バブルの頃などは、高級車を乗り回し祇園で遊興する住職や跡継ぎたちの素行が話題になったものだ。
現在、「お寺崩壊」という言葉が叫ばれているように、観光で成り立つ有名寺院や宗派のトップに立つ大寺院などを除けば、どのお寺も経営に苦しんでいるようである。
檀家が減り、法事が減り、葬儀が簡素化され、墓じまいする人も増え、後継者も見つからず、地域からお寺が消えていきつつある。
こうした存続危機の背景にあるのは、日本人の宗教観の変化であり、それに対応できないでいる既存仏教界の体質のためであろう。
生きることの苦しみは昔も今も変わっていないので、心の拠り所を求める人は決して減ってはいない。
要は、令和の今を生きる日本人が望むものを既存仏教界が提供できなくなっているのである。
既存仏教界の教え、すなわち日本的大乗仏教が人々から見放されつつあることが根本問題である。
本書は、伝統的な日本仏教に対する手厳しい批判がなされている。
仏教が、ブッダの成道の地であるインドから、中国を経て、日本に入って来る過程でいかに変容したか、そして日本に入ってからもいかに大本のブッダの教えと離れていったかが、説かれている。
その点で、2018年発行の大竹普著『大乗非仏説をこえて 大乗仏教は何のためにあるのか』はむろんのこと、1992年発行の末木文美士著『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』をも先取る内容と言える。
日本的大乗仏教にまだ勢いがあった70年代に、これだけ鮮烈な批判をやってのけた渡辺の学者としての自負や意地を感じる。
1977年にちょうど70歳で亡くなっているので、「これが最後の仕事」という覚悟もあったのかもしれない。
当時本書を読んだ日本仏教界はどのような反応を見せたのだろう?
まず、手厳しい批判の一端を引用する。
日本のばあいには政府の力をかりずに大陸と連絡することはまず不可能であったから、初伝以来、後世まで、仏教の流伝は必ず政府の手を通すことになった。日本仏教に官製のにおいが強い第一の原因である。第二には、日本人の一般の性格として、個人や団体の自由意志によって行動をおこす意欲が乏しく、宗教のような良心の問題までも、政府や権力者の力にすがって解決しようとする傾向が強い。のちに述べる宗派仏教もそのひとつの現われであるが、敗戦後、占領下にあって、さまざまな宗教団体は占領軍司令部に訴えて問題の有利な解決を嘆願したり、最近では大宗派が信仰の自由を迷惑がって、戦前のような宗教による国家の干渉を希望したりするのも、いわば仏教伝来以来の伝統である。明治・大正・昭和においても、仏教の社会事業はあまり盛んとは言えない。敗戦後、占領軍司令部で日本の宗教の実態を調査したときに調査官を驚かせたのは、仏教の社会事業の貧弱さよりも、むしろ「なぜ仏教者が社会事業をしなければいけないのか」という仏教側からの反問であった。日本では後世になっても、解脱は真剣な問題としてとりあげられることがまれであった。現世と、そしてそれに続くすぐ次の世だけが関心の的となった。仏教の本質的な問題であるところの、輪廻と解脱の問題、およびその根底にあるところの論理的必然性ということを無視して、ただ現世と来世という狭い視野に限って生死観を構成した。それが日本仏教の大勢であった。日本で中世にアミダ教が発達したひとつの大きな理由は、民衆にとっては生前にかなえられなかった希望を彼岸において実現すること、貴族にとっては現世の享楽を来世まで延長することにあった。いずれも、“感性的世界”に属する欲望にすぎず、本来の宗教体験以前の問題であるが、平安期から鎌倉期にかけて流行したアミダ教は原則としてこの段階にとどまるものであった。
上記のような日本仏教に対する批判は、当然、本来の仏教との乖離を前提としてなされている。
では、渡辺は本来の仏教をどのようなものと解しているか。
その一端を次に示す。
仏教の思想は、無因論(断見)と宿命論(常見)とをともに否定し、宇宙現象と人間実存とをすべて縁起として説く点に特徴がある。仏教ぜんたいは一個の厳密な論理的体系であると見ることができる。仏教がどのように形を変えても、いやしく仏教という名に値する以上は、その終局の目標は人生問題の究極的な解決――インド流にいえば輪廻からの解脱――でなければならない。通俗的な自称仏教が約束するような、感性的世界の欲望の満足や、後生安楽などは真の仏教の目的とはなりえない。仏教の理想は仏陀であり、仏陀は人間の理想像である。仏陀の教えの中心は生命の尊重と慈愛である。このうちには人間はもちろん動物をも含める。社会奉仕事業は仏教の基本精神に関する。道徳の実践なしには仏教の道に歩みだすことができない。戒律を守ることはすべての仏教者の出発点であり、しかもつねに忘れてはならない問題である。
まったくもって渡辺の言うとおり。
本来の仏教(原始仏教)がなんであるかを見事に言い当てている。
70年初頭で、すでにこれだけの卓見を持し、堂々と言い放っている人がいたのかと感嘆した。
令和の今でこそ「大乗非仏説」は常識となりつつあり、日本の仏教が、「日本の風土・伝統的宗教観に適合するよう改良が加えられたものであり、原始仏教のみならず他国の大乗仏教とも異なる宗教に変容している(ウィキペディア「大乗非仏説」より)」ことは、佐々木閑をはじめとする仏教学者や一部大乗仏教の僧侶たちの間でも了解されている。
また、80年代にスリランカから来日したアルボムッレ・スマナサーラ長老を中心に日本テーラワーダ仏教協会が設立されて以来、一般市民の間でも、タイやスリランカやミャンマーに伝わる南伝仏教(テーラワーダ仏教、かつて小乗仏教と僭称された)こそがブッダ本来の教えに近いということが知られるようになった。
大乗非仏説の真偽、あるいは「テーラワーダ仏教=仏説か?」の議論はひとまず置いといて、少なくとも、令和を生きる日本人の多くが、テーラワーダの教えに生きるための拠り所を見出していることは確かである。ソルティもまた、そのひとりである。
渡辺の先見の明に驚く。
――と思ったら、最後の最後にとんだ「どんでん返し」があった!
渡辺は、インド仏教から変容してしまった日本的大乗仏教にあっても、空海・親鸞・道元は「真の仏教の具現者」として評価すべきところがあることを指摘した後で、「わが心―わが仏」と題した最終章で、次のように本書をまとめている。
大乗仏教は『華厳経』においてその最高点に達したということができるであろう。『華厳経』そのものが、思想の書であり、哲学書であり、聖典でもあるが、中国においては法蔵を中心として華厳教学として大成された。日本でもまた早くから経と注釈書とを輸入し、いつの時代にもこれを学ぶ者が絶えなかった。
ここはどう読んでも、渡辺が『華厳経』を仏教の発展形態の最高峰として位置付け、自身の心の拠り所にしているとしか解せない。
別にそのこと自体は個人の信仰の自由なのでかまわないが、『華厳経』はインドで作られたものとは言え、大乗仏教の経典である。
ブッダの直説でないのは明らか。
中国や日本の大乗仏教を否定する一方で、インドの大乗仏教を良しとする渡辺の真意が不可解であるが、察するに渡辺は、「大乗非仏説」論者ではなくて、「中国(由来)仏教非仏説」論者のようなのだ。
次のように述べている。
日本などでは華厳と天台とを対照させることがよくあるが、前者はインド仏教の継続であり、後者は中国独自の構想であってとうてい比較にはならない。
どうやら、渡辺の意図は、天台宗を筆頭とする中国(由来)仏教を否定し、華厳経や密教のようなインド(由来)仏教を肯定するところにあったようである。
必ずしもテーラワーダ仏教を評価しているわけでないのである。
ソルティは『華厳経』を読んだことがないので内容をほとんど知らないが、毘盧舎那仏(密教的には大日如来)を宇宙の中心とする曼荼羅的世界観というイメージがある。
一神教に近いように思うのだが・・・。
おすすめ度 :★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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