日時 2026年4月29日(水、祝)14:30~
会場 日比谷図書文書館・地下ホール
演者 西谷文和(ジャーナリスト)、山岡淳一郎(ノンフィクション作家)
主催 デモクラシータイムズ
日比谷図書館に本を返しに行った時、館内の掲示で数時間後にこの講演会あるを知った。
当日申込み可だったので、奈良大学通信教育の勉強を途中で切り上げて参加した。
約200名収容のホールは8割以上埋まっていた。
ペシャワール会の医師でパキスタンやアフガニスタンで医療活動に従事した中村哲は、2019年12月4日に亡くなった。73歳だった。
今回の講演は、西谷がアフガニスタンで取材撮影した中村の活動風景をスクリーンに映しながら、西谷と山岡が補足説明し、中村哲の残した足跡を追い、その人物像に迫るものであった。
ソルティは、『アフガニスタンの診療所から』(筑摩書房)という中村の書いた本を以前読んだことがあり、銃弾に倒れたあとに制作されたドキュメンタリーも観ている。
アフガニスタンの砂漠に用水路をつくり、不毛の大地を畑や森に変え、移住してきたムスリムたちのためにモスクや学校を建て、何十万人もの生計の資をつくり命を救った中村の偉大な仕事は知っていた。
だが、こうやって改めて、アフガンの荒れた大地で蝶のように軽やかに現地人の間を動き回る小柄な中村の姿を目にし、褐色の土地が緑の森に変わっていくさまを見ると、底知れない凄さに圧倒される。
本人自身はまったく、「俺は偉大な仕事をやり遂げた」みたいな自負や得意気や慢心がなく、ゲーセンのUFOキャッチャーでもするかのように楽し気に自ら重機を操って地面を掘削し、趣味の日曜大工の延長気分で建物を設計し、飄々としている。
そこに偉人という言葉は似つかわしくない。
そこに偉人という言葉は似つかわしくない。
中村は、15歳の時に自ら望んでキリスト者になったという。
根っからの信仰の人であるがゆえの博愛精神であり、意志の強さであり、エゴの薄さであり、裏表のない明朗さなのだと思う。
パコルと呼ばれるアフガン帽をかぶったチョビ髭の中村の笑顔は、なんだかロベルト・ロッセリーニ監督『神の道化師 フランチェスコ』に出てくる野辺を無邪気に走り回るブラザーたちを髣髴とさせる。
そう、「偉人」という言葉が似つかわしくないのはCUTEだからだ。
『アフガニスタンの診療所から』より
ソルティはまた、奈良時代の僧侶である行基を連想した。
仏教が鎮護国家のためにあり、国家が僧侶を認定し管理し、経典や仏像を作成し、布教を独占するのがきまりだった当時、行基は禁を破って野に出て、民衆たちに仏の教えを説いた。
同時に、貧しい人を助けるために布施屋と呼ばれる無料の宿泊所を作り、治水工事や架橋工事などの社会事業を行った。
朝廷からのたびたびの弾圧にもめげることなかった。
大乗仏教の教えに則って広く民衆を助ける、いわゆる菩薩行に専心した僧侶として、ほかに空海、空也、親鸞、一遍、良寛、それにその名をほとんど知られていない叡尊と忍性などがいるけれど、先鞭をつけて、のちの遁世僧たちのモデルになったのは行基である。
こうした利他の精神を極める人は、イスラム教だろうがキリスト教だろうが仏教だろうが関係なく、宗派や教義を超越した境地に達するのだろう。
ムスリムに愛されたクリスチャンの日本人、という中村のユニークさの秘密はそこにあると思う。
ムスリムに愛されたクリスチャンの日本人、という中村のユニークさの秘密はそこにあると思う。
中村が15歳でクリスチャンになったきっかけの一つとして、講師の山岡は、その前年(1960年)に起きた伯父・火野葦平の自死を挙げていた。
可愛がってくれた伯父の死――敗戦を境に、“兵隊作家”の栄誉から“戦犯作家”の汚名に突き落とされたすえの死の選択――は、思春期の中村に少なからぬ衝撃を及ぼしたであろうことは想像に難くない。
ひょっとしたら、中村の活動の底のほうに、愛する伯父の無念を晴らしたいといった思いもあったのかもしれない。
ひょっとしたら、中村の活動の底のほうに、愛する伯父の無念を晴らしたいといった思いもあったのかもしれない。
「どうして、中村に生前、国民栄誉賞やノーベル平和賞をあげなかったんだ!」と、ソルティは不平の一つでも言いたくなるが、当の本人はおそらく、「そんなもの、どうだっていい」と思っていたことだろう。
とくに、憲法9条を改悪せんとする国家がくれる栄誉賞なんて、中村にとって、アフガンの牛の糞ほどの価値もなかったろう。
9条堅持を訴え続けた中村は、“お花畑”の住人ではなかった。
無からお花畑を作った人なのだ。
Ovidiu NegreaによるPixabayからの画像



