2025年ハヤカワ新書

DSCN8268

 早川書房が新書参入したのを本書ではじめて知った。
 2023年6月に創刊し、すでに60冊以上出ているようだ。
 著者の奥野については、『人類学者K ロスト・イン・ザ・フォレスト』(亜紀書房)でそのユニークな存在を知った。
 本書は、2019年に立教大学で開講した「セックスの人類学」の授業を基にしたもので、まえがきで次のように記している。
 
 性を人類学的に考えるとは、私たちの「当たり前」を括弧に入れ、異なる文化や他の生き物たちの行動と照らし合わせながら、人間の性を見つめ直す試みです。本書では、さまざまな生き物の行動や文化習慣を通じて、性にまつわる工夫と実践を紹介します。そこからまずは、私たちが抱えがちな性愛の問題や生きづらさをほぐし、新しい風を吹き込むことができればと思います。

 さまざまな時代、さまざまな地域の文化や風習をフィールドワークする人類学者は、当然、多様な性文化を見聞する機会が多い。
 だが、それを調査研究して発表するのは、なかなか勇気のいることだろう。
 ソルティは90年代に、性人類学者のキム・ミョンガンが『週刊ビッグコミックスピリッツ』に連載していたエッセイを面白く読んでいた。
 動物界と人間界の多様な性行動を紹介する文章は、何をもって正常と言い、何をもって異常と言うのか、ソルティの固定観念を揺さぶった。
 フェミニズムブームの影響もあってか、当時はそういった記事をよく目にしたものである。
 2000年代に入って、統一教会勢力(むろん自民党議員を尖峰とする)による“行き過ぎた”性教育バッシングが起こり、「性を自由に語ること」に対するバックラッシュが社会全般を見舞った。
 その余波はいまも続いている。
 なので、本書の登場は、どこか懐かしいような、記憶の底に埋もれた金鉱を探り当てるようなこそばゆい感じがあった。

 90年代半ば仙台にいた頃、ゲイやレズビアンの仲間と一緒に、多様な性の存在を訴える広報誌を発行したことがあって、そのときにつけた会報の名前が『ぼのぼ』であった。
 本書でも取り上げられているように、ゴリラやチンパンジーと同じ類人猿ショウジョウ科に属するボノボは、群れのコミュニケーションを円滑にするために、オス同士、メス同士でも普通にセックスする習性をもつ。

 ボノボは性に余念がなく、ありとあらゆる性交渉を行いますが、印象深いのは、2頭の若いオス同士でディープキスをすることがあります。こうした熱烈なキスが、いつの間にか、ケンカの真似事になったり、追いかけっこの遊びに変わったりするのです。ドゥ・ヴァール(ソルティ注:オランダの動物行動学者)によれば、ボノボにとって、ディープキスのようなエロティックな接触は、それ以外の行動と切れ目なくつながっています。それが、ボノボの日常なのです。
 私たち人間は日常的な行為と、性的な行為を分けています。多くの場合、セックスは非日常的な特別な行為である場合が多いでしょう。しかし、ボノボはそうではありません。彼らにとって、社会生活とセックスは、完全に結びついていると言えます。

 逆に、一頭のおとなのオスだけが群れのすべてのメスを支配し交尾する、いわばハーレム集団をつくるオナガザル科のハヌマンラングールの例がある。
 オス同士は群れのボスになる権利を巡って激しい闘争を行う。
 前のボスを倒して新たにハーレムの主となったオスは、前のボスが作った群れの中の子どもたちを次々と殺していく。
 結果的に、自らの子ども(遺伝子)だけが残る。

猿の一夫多妻

 同じ霊長類であるボノボとハヌマンラングールでもこれだけ性行動には違いがある。
 地球上で有性生殖が始まってから、つまりオスとメスという性が生まれてから、いかに多様な性行動が生まれては消えていったことか。
 人類もまた自然が生んだ生命のひとつであり、進化の法則のもとに生息しているのだから、人類の性を考えるには、まず、「生物(自然)としての性」、すなわち、「人類史を動物との連続性から見て、過去から未来へと貫く生物進化的視点」から捉えることが必要だ、と奥野は述べる。
 これが縦軸である。

 一方、横軸は「文化としての性」、すなわち、「さまざまな地域で実践される多様な性文化を比較する比較文化的視点」である。
 たとえば、高地ニューギニアのサンビア社会では、少年の通過儀礼として儀礼的同性愛が行われる。
 7~10歳前後の少年たちは、年上の若者たち(おおむね15歳以上)にフェラチオし精液を飲む。
 15歳になると、今度は精液を与える側に回る。
 精液の授受を通して、生まれたままでは不完全な男子が、生殖能力や戦闘能力を備えた一人前の男になると信じられているのである。
 男子は結婚するまでは女性と交わらない。
 近代西欧的概念で言うならば、サンビア社会の男たちは、結婚するまでは同性愛(ゲイ)、結婚すると両性愛(バイセクシュアル)、子供ができると異性愛(ヘテロセクシュアル)と、時期によってセクシュアリティを変えていく。

 あるいは、南米ベネズエラのバリ社会の例。
 バリの女性は結婚後、妊娠が発覚すると、複数の愛人と関係を持つようになるという。
 子どもが生まれると、生物学的な父親とは別に、愛人たちは「第二の父親」となり、生まれた子どもに対する食料の分配の義務を負う。共同親権みたいな感じか。
 これは、食料の調達手段が男性だけに許されているにもかかわらず、男性の人口比率が少ないため、女子供が餓死しないように生み出された生存戦略とされている。

DSCN8263

 このような文化や風習を聞くと奇っ怪に感じるかもしれない。
 が、日本人もまた、令和の感覚からすれば奇っ怪な性愛文化を有していたことは、歴史が証明している。
 平安時代の貴族の男たちは、女の顔も姿も声も知らずに恋文を送り、結婚した。その結婚も、女のもとに三夜通い続けなければ成立しなかった。
 だから女たちは、男の誠意や人柄を確かめるべく、つれない返事を歌で送って男をじらし、男を燃え立たせたのである。 

 あるいは、布教のため来日した伴天連たちを仰天させた日本古来の男色文化
 僧院で、戦場で、お茶屋で、男たちは愛を語り肛門性交し、稚児や念弟をめぐって喧嘩し、あるいは死によって結ばれることを願って心中さえした。
 ジャニーズ騒動以降、未成年を対象とする同性愛は(異性愛も)許されないものとなったが、ちょっと前までは『少年愛の美学』なる本がふつうに書店で並んでいたのである。

 セックスの人類学を考える上では、縦軸としての生物進化的視点(生物としての性)と、横軸としての比較文化的視点(文化としての性)、両方のアプローチで捉えることが大切、と奥野は力説する。
 それぞれのアプローチにおいて奥野が紹介する興味深い事例に驚いたり感心したり、飲み会で披露する恰好のネタを仕入れるようなつもりで楽しく読み進めていった最後の最後に、その深い意図に気づかされる。
 取り上げられるのは、いまもアフリカ大陸各地で見られる女子割礼/女性器切除(FGM)である。

 女性や女児の健康被害や命の危機という視点から、そして男性による女性の「性の支配」というフェミニズム的視点から、年端の行かない少女が自己決定しないままに強制的に行われる女子割礼/女性器切除は重大な人権問題とされ、西洋社会から強い非難を浴びてきた。
 しかし、当の風習をもつアフリカなどいわゆる発展途上国、第三世界の女性たちから、「あなたたちに私たちの文化を批判されたくない」と反発された。
 西洋的価値観の押付けとみなされたのだ。 

 ここで問われるのは、「健康」「安全」「人権」を至上とする近代西洋社会の価値体系によって、それとは別の伝統的価値体系によって生き残ってきた社会を、一方的に批判・審判・裁断することの正当性である。
 そしてそれは、19世紀の人類学の学問的態度、すなわち、「西洋こそが最も進んだ社会であり、未開と呼ばれる社会もいずれ西洋社会に近づいていく」という自文化中心主義的発想と、その傲慢を反省したところから生まれた20世紀以降の人類学、すなわち、「未開と呼ばれた文化・社会にも固有の体系的・理性的かつ深遠な思考があり、それぞれ固有の価値を有する」という文化相対主義との対立である。

MVIMG_20260414_152015~2

 日本は明治維新このかた、とくにアジア・太平洋戦争で敗北を喫して以降、アメリカをはじめとする近代西洋社会の価値体系を受け入れて、まがりなりにも先進国の末席に連なってきた。
 一夫多妾の招婿婚も、男色文化も、昔話の語り草となった。
 だから、多くの日本人は、女子割礼/女性器切除に対しても西洋的価値観に則って、これを「人権侵害」「性暴力」と判断する傾向にある。
 もちろん、ソルティもそのひとりである。
 でもその日本人だって、一夫多妾や男色文化に対する西洋諸国からの批判に対しては、「お恥ずかしい」「廃止します」と素直に受け入れられても、「天皇制は人権侵害だから即刻廃止すべき」という批難に対しては、冷静には耳を貸さないだろう。
 内政干渉と大いに反発するであろう。
 どこの国だって、どこの民族だって、自らが祖先から受け継いで大切に守ってきた伝統文化について、よその国からとやかく言われたくないのである。
 いくら普遍的・人道的な理由が持ち出されようとも、介入された側からすれば、それは理不尽な暴力ととらえられかねないのである。

 では、どうしたらいいのか?
 女子割礼/女性器切除の問題は、よその国の固有の文化・風習だからほうっておくべきなのか?

 あらゆる文化の優劣をつけずに、相手の文化の価値観を尊重するという考えが、文化相対主義の理念です。それは時に相手の価値を尊重するあまり、「私は私」」「あなたはあなた」という過度の相対主義に陥ってしまい、相手の文化やその価値を手付かずの状態で突き放してしまうことで、無理解なままに放置してしまうことになるのです。しばしばこれを「文化的アパルトヘイト」とも呼びます。人類学者・浜本満の整理によれば、本来、文化相対主義は人類学における他者=異文化理解のための「理解と対話の出発点」として試みられたにもかかわらず、逆に「理解の停止と対話の断念」を正当化するレトリックとしても使われてきたのです。
 また、・・・(略)・・・他者の文化や社会を昔から今、未来に至るまで固定的で変わらないものと見なしてしまう可能性もまた、文化相対主義的思考の落とし穴として指摘できます。文化・社会を固定的なものと見なし、人間の行為の意味を当該地域の文化によってあらかじめ決めつけて語る文化決定論に陥ってしまう危険性もありうるのです。

 横軸の比較文化的な視点では、それぞれの固有文化のセックスのあり方がただ示されるだけで、私たちはそれを自分たちとは異なる文化として突き放して理解することに終始してしまう恐れがあります。結局、どんなにめずらしいセックスの習慣を見聞きしたとしても、私たちのセックスに対する価値基準はそのままで、単に保存されてしまうだけなのです。
 しかし、ここに縦軸としての生物進化的視点と合わせて考察をしていくならば、人間自体を問うことになります。人間のことを考えるためには、人間を超えたレベルで比較し分析する必要があるのです。だからこそ、本書では15億年前を出発点とし、生物進化という悠久の時のなかで、セックスがどのように今日の人類に見られるようなかたちに生成変化してきたのかを見てきました。そのとき、生物としての人間にとって、何が自然で何が不自然なのかが改めて問われることになります。・・・・(略)・・・・多文化でなく、多自然的な視点に立つことで、文化相対主義が取りこぼしてしまった問題を問うことができるのです。(ゴチックはソルティ付す)

 90年代にソルティが読んだ性人類学の記事では、ここまでの深掘りはなかった。
 人類学も進化しているんだなあ。
 
ぼのぼ
ボノボ





おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損