2025年NHK出版
「仏教はどのように変容し、どのように多様化したのか」を理解するということは、「なぜ私たちは今、このような仏教世界にいるのか」を理解することであり、そして「今の私たちにとって、仏教はどのような意味を持っているのか」を理解することでもあります。これからますます混迷の度を増すと思われる現代社会で、釈迦がつくり出した仏教の価値観、世界観は重要な視点を我々に与えてくれると確信しています。(本書「はじめに」より)
――という趣旨から書かれたコンパクト仏教史(日本版)。
世界3大宗教の一つとされ、2500年もの歴史を持つ仏教を、わずか160ページほどの冊子にまとめてしまう佐々木の「難しく複雑なことを、わかりやすくシンプルに解説する」相変わらずの手腕に敬服した。
取り急ぎ日本仏教史のポイントをさらいたいという初学者におススメ。
取り急ぎ日本仏教史のポイントをさらいたいという初学者におススメ。
いま暴挙は承知の上、さらにそれを500字以内のダイジェスト版にすると、
紀元前500年頃のインドで釈迦により説かれた教えは、没後100~200年の根本分裂による部派仏教の成立、および紀元前後の大乗仏教興隆を経て、シルクロードを伝って中国に渡り、そこで新たに沢山の経典を加え、538年に日本に入ってきた。
現世利益を叶えてくれる“新しい神”として受け入れられた(大乗)仏教は、7~8世紀には国を一つにまとめ国を護る手立てとして用いられ、平安初期に最澄・空海が唐からもたらした密教で呪術的要素を加味し、1052年の末法到来に向けて極楽往生を願う貴族の間に急速に広まっていった。
武家政権に移るとともに一気に大衆化・易行化し、浄土宗・浄土真宗・時宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗など現在まで続く宗派の林立を生み、徳川幕府の統治政策のもと檀家制度による国民総仏教徒化に至った。いわゆる葬式仏教の始まりである。
明治初期に神仏分離令からの廃仏毀釈というピンチが訪れるも、国策協力することでこれを切り抜け、アジア・太平洋戦争では戦意高揚・一億玉砕のため大いに宗旨と組織力を活用した。戦後、組織の立て直しを図ったが、日本人の宗教離れが加速化し、現在の末期的状況に至る。(486字)
こうやって流れをふり返った時に、いくつかの疑問が浮かぶ。
たとえば、
- なぜ、根本分裂は起きたのか?
- なぜ、大乗仏教と小乗仏教に分かれたのか?
- なぜ、大乗仏教にはたくさんの宗派があるのか?
- 日本の仏教はどういった点が特殊なのか?
本書は上記の問いについて、実に鮮やかに、実にわかりやすく、答えてくれる。
特に、部派仏教の成立の背景を、「律(出家集団が守るべき決まり)」の改変あるいは解釈の変更によって解き明かしていく箇所は、良くできた推理小説並みにスリリングで面白く、「なるほど~」と唸らされた。
仏教における三宝と言えば「仏・法・僧」、すなわち「ブッダ・ブッダの教え・出家集団(サンガ)」のことを指す。
また、三蔵と言えば「経・律・論」、すなわち「お経・サンガの規則・仏教哲学」のことを言う。
また、三蔵と言えば「経・律・論」、すなわち「お経・サンガの規則・仏教哲学」のことを言う。
在家のテーラワーダ仏教徒であるソルティにとって、三宝のうち「僧(サンガ)」はやや遠いところにあり、したがって三蔵のうち「律」は――在家が守るべき五戒をのぞけば――ほとんど関係がない。
なので、「律」の重要性について、これまであまり考えたことがなかった。
本書を読んで、「仏・法」を守るためには、「律」によって統制された「僧(サンガ)」の存在がいかに重要であるかを認識させられた。
仏教が、根本分裂によっていくつもの部派に分かれたのも、大乗仏教が起こったのも、日本仏教が異なる宗旨や経典を奉じるいくつもの宗派を擁しているのも、「あるがままの状態がそのまま悟りである」という天台本覚思想が生まれたのも、日本の仏教宗派が進んで戦争協力(=暴力肯定)したのも、日本のお坊さんが妻帯し酒を飲み風俗で遊ぶのも、すべては釈迦没後の第一結集のときに弟子たちが確認し合った「律」の根幹が崩れてしまったことに因を発していたのである。
佐々木は、日本仏教の特徴の一つとして、次の点を挙げている。
律蔵にもとづいて運営されるサンガは存在せず、僧侶の生活を厳密に規定する規則は存在しなかった。これは現代に至るまで続いている特性である。
その結果、僧侶の妻帯(=お寺の跡を継ぐ息子の存在)という他の仏教国では見られない特異な現象を生み出したわけだが、最も重要かつ深刻なのは暴力の肯定である。
律蔵では、僧侶が他者に暴力を振るうことは絶対に禁じられています。武器を手にして争うことはもちろん、たとえ教育上の必要によって弟子を叱責する場合でも、暴力を用いることは決して許されません。僧侶が軍隊の行進を見ることさえも禁じられているのです。
しかし日本仏教では、その律蔵が機能していません。その結果として当然予想できることですが、聖戦思想を利用した暴力が積極的に容認されるようになりました。「仏教の教えを守るためならば僧侶が暴力を振るうことも許される」、あるいは「仏教の教えを守るために暴力的に戦うことは、進んでなすべき善いおこないである」といった暴力肯定の姿勢が容認されるようになったのです。
「律」がなくとも、「経」と「論」があれば仏教は守られる。「僧(サンガ)」がなくとも、「仏」と「法」があれば仏教は守られる。
――と言いたいところだが、現実的には、その時々の政治の状況によって、「経」も「法」も改変され、都合よく解釈されてしまった歴史の経緯がある。
「反戦の意志があれば、憲法9条がなくとも平和は守れる」という、最近よく耳にする言説を思い出した。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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