2018年サンガ

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 テーラワーダ仏教僧侶のスマナサーラ長老と曹洞宗僧侶の藤田一照氏の対談は、異なった仏教宗派の対談――たとえば、臨済宗v.s.曹洞宗、浄土真宗v.s.日蓮宗といった――である以上に、初期仏教(旧小乗仏教)v.s.大乗仏教のニュアンスを帯びる。
 つまり、兄弟喧嘩というより、親子喧嘩に近い。
 その親はあまりにも偉大で、物知りで、経験豊富で、ゆるぎない信念を持ち、子供のことをよく分かっている。
 といった場合、対等の立場での丁々発止の喧嘩と言うよりも、古い伝統に縛られた頭の固い親に対する子供の反発、あるいは自己の個性を発揮したい未熟な子供に対する親のたしなめ、みたいな展開を想定しがちで、いつぞやの大塚家具の父と娘の対立が思い浮かぶ。

 しかしながら、ここではその想定は裏切られる。
 スマナサーラ長老は「古い伝統に縛られた頭の固い親」ではなく、藤田一照氏は「自己の個性を発揮したい未熟な子供」ではない。
 2人とも十分大人で、対談相手に対する礼儀をわきまえ、敬意と理解をもって接している。
 間違っても大塚家具の場合のような残念な(あるいはスリリングな)展開にはなっていない。
 一照氏がスマナサーラ長老を立てて“教えを乞う”スタイルで一貫しており、終始穏やかな対談である。

 「終章 対談を振り返って」の一照氏の言葉を読むと、「ほんとうはもっと言いたいこと、議論したいことがあったんだろうなあ」と察しがつく。

 ブッダが一生の生き方を通して教えられたことはいったい何であったかということを、経典の文献とは別に、人から人へと相承されていった(「教外別伝 不立文字」)坐禅の実修によって理解し、コトバで表現しようとしたのが、ブッダの死後に興った大乗仏教の展開だったのではないか。それは、ブッダの言ったコトバそのものではなく、そこには盛り込まれていなかったブッダの一生の生き方で語られたコトバに拠ろうとしたということだ。

 一照氏が言わんとしているのは、テーラワーダ仏教と大乗仏教との違いをつくっているのは、仏教の原点をどこに据えるか、すなわち、解脱したブッダの教え(経典)だけに拠るのか(前者)、それとも悟った後のブッダの生き方をも含めて見るのか(後者)、という点であるってことだろう。
 この仏教“観”の違いこそが、大乗仏教の主要経典である『般若心経』で、「色即是空」のあとに「空即是色」が来る理由であると言い(スマナサーラ長老は『般若心経は間違い?』という著書の中で「空即是色」を否定されている)、また、禅の『十牛図』が第八図「人牛俱忘(悟りの完成)」で完結せずに、第九図「返本環源(すべては源に還る)」と第十図「入鄽垂手(世俗に戻って法を説く)」が付け加えられた理由であると、示唆している。
 非常に興味深い見解と思った。

十牛図第十図
第十図「入鄽垂手」

 そのへんを「あとがき」でなく、対談の場において、遠慮なく、スマナサーラ長老にぶつけていたら、もっと刺激的で面白い読み物になっただろうに・・・・。
 一照氏の、カドを立てない日本人的奥ゆかしさゆえなのか、目上の人に対する儒教的精神のあらわれなのか、高齢で病弱のスマナサーラ長老に対する配慮なのか、あるいはアメリカでさまざまな宗教の信者と付き合ってきたキャパの広さゆえなのか、理由はよくわからないが、ここにはたとえば、平安初期の最澄v.s.徳一のような全存在を賭けたような激しい論争は見られない。
 その点で、同じサンガ発行のスマナサーラ長老の対談本の中では、やはり曹洞宗僧侶である南直哉(じきさい)氏との『出家の覚悟』、あるいは、宗教学者の山折哲雄との『迷いと確信』のほうが、仏弟子同士の真剣勝負の色合いが濃く、スリリングで、読んでいてしびれるものがあった。

 時代のモードは、「どちらが正しい」のバトルやマウント合戦より、「それぞれが自分の気に入ったものを“推す”」自由放任主義(自己決定・自己責任主義)にあるのかもしれない。
 加えて言うなら、15年以上スマナサーラ長老の法話を聴いてきたソルティの主観ではあるが、スマナサーラ長老も対人関係においてずいぶん丸くなった、というか“日本人色(和をもって尊し)”に染められたような気がする。
 相手を頭から否定せずに、自分の意見(というよりブッダの言葉)を語るテクニックには学ぶところが多い。 

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 以下、スマナサーラ長老のセリフより印象に残ったものを引用。

仏教の歴史には、優れた学僧たちがいくらでもいます。問題は、彼らが自分の学派と宗派をつくってしまったことです。宗派仏教を学んでも、悟ることは不可能です。悟りの世界に、宗派は成り立ちません。

仏教は出家が行う別世界である、と思ったところに問題があります。出家は、解脱に達するために欠かせない条件ではないのです。・・・(中略)・・・「気づきの実践」は誰にでもできることです。心の安らぎは誰にとっても必要です。在家として生活しても、無執着に達したならば、究極の安らぎを経験することができるのです。

 仏教はこう言います。「世間が問題だらけになっているのは、あなた方が『生きるとは何か』という教習所に行ってないからでしょう。免許を取ってないからでしょう。だから、生きることを先に観察しましょう」。これが、仏教が提案する観察なのです。



おすすめ度 :★★★

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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損